Tokyo Chapel

2018年8月15日

第227日

いい加減な生き方をやめる

私はスポーツをすることが好きです。特に秀でたものがあるというのでありませんが、とても楽しんでいます。一緒にスカッシュをする相手はさほど高いレベルの腕前ではありませんが、いつも楽しく、リラックスして楽しんでいます。でも競争心は燃えます!私たちのレベルであったとしても「厳しいトレーニング」が求められます。私は定期的にトレーニングし、プレイするのです。私が何を食べるか、睡眠をどれだけ取るかに気を遣っている理由の一つはそのためです。

使徒パウロは記します。「あなたがたは皆、競技場に行って、アスリートが競い合うのを見たことがあるだろう。皆が走るが、勝つのは一人。勝利のために走るのだ。すべての良いアスリートは厳しい練習をする。彼らはやがて輝きを失い、くすんでしまう金メダルを取るためにそうするのだ。しかし、あなたがたは永遠に朽ちない「金」を追求しているのだ。(1コリント9:24-25,MSG訳)」

競技をするスポーツ選手たちが「長続きしない」何かを獲得するために厳しい練習をするのなら、私たちは永遠に「朽ちない冠を受けるために(25)」道徳的、霊的な生活において「厳しいトレーニング」をどれほどするべきでしょうか。

パウロは記します。「私はあなたがたについては知らないが、私はゴールを目指して激しく走っている。私は自分が得たすべてのものを与えています。いい加減な生き方をしたくありません!私はいつも油断しないで最高のコンディションにしているのです。(26,MSG訳)」神を礼拝すること、神に仕えることはパウロの目的であり、人生の願いでした。彼は自分の能力の限りを尽くしてそれをしたかったのです。彼は自分が得たすべてを与えたいと願いました。彼は「金」を狙っていました。

礼拝と奉仕は非常に緊密に結び合わさっています。(ギリシャ語のラトリューオー[latreuo]は「礼拝」にも「奉仕」にも用いられます。)すべての人間は礼拝者です。あなたは唯一、まことの神を礼拝しているか、その他のモノや人を礼拝しているかのどちらかです。すべての人間は奴隷です。神の奴隷か、あなた自身の奴隷か、あるいは他のモノや人の奴隷です。

今日の箇所で、私たちは唯一まことの神を、私たちが得たものすべてを与え、いい加減な生き方をやめて、私たちの心と存在を尽くして礼拝し仕えることの重要性を見ます。


なぜあなたは礼拝し仕えるのか?

詩篇97:1-12

神は宇宙を司っておられます。「主は、王だ。(1)」もし、神が統治されなかったなら、命には意味がなかったでしょう。しかし、神は統治し、喜びの理由があるのです(1)。

詩篇の作者はすべての被造物に礼拝するように呼びかけます。「あなたの膝よ…主を礼拝せよ!(7,MSG訳)」

作者は神を賛美します。第一に、神が神であるゆえに、第二に、神が為さった御業のゆえに。神は守りを与え、解き放ち、導きを与え、ご自身の民を喜ぶお方であるがゆえにです(10-12)。

  1. 神はあなたの守り主です
    神はあなたの人生を守ります。「神を愛する者に、神は安全を保つ。(10b,MSG訳)」
  2. 神はあなたの解放者です
    神はあなたを悪者の手から解放してくださいます(10c)。神は彼らの手からあなたを奪い返してくださいます(10c,MSG訳)。
  3. 神はあなたを導かれます
    神はあなたを照らす光です。神は導き、裁き、あなたの目を開きます(11a)。
  4. 神はあなたの喜びです
    神は喜びを与えます。それで、あなたが神を喜ぶことが出来、神の聖なる御名をほめたたえることが出来ます(11b,12)。「抑えきれない喜び、それは、神の恩寵と守りの意識から来るものです。(11,AMP訳)」

「ですから」作者は締めくくります。「神の民よ。神に賛美の叫びを上げよ。我らの聖なる神に感謝をささげよ!(12,MSG訳)」

祈り:主よ。あなたが私を守ってくださるお方であり、私の解放者であり、私を導く、私の喜びであることを感謝します。


あなたが礼拝し仕えるお方は誰か?

1コリント9:19-10:13

神の愛が私たちのものの見方を変えるまでは、私たちのほとんどは、自分自身の(そして、私たち自身の肉的な欲求の)奴隷です。パウロはその反対でした。イエス・キリストのゆえに、パウロは自分のからだを主の奴隷として、自分自身を「すべての人の奴隷」としたのです(9:19a)。

パウロは言います。私は「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(22b)」これは、彼が見せかけで言っているのでも、自分のありのままの姿が心地よくないと言っているのでも、自分に我慢できないと言っているのでもありません。あるいは、パウロが聴衆に合わせて福音のメッセージを変えるという意味でもありません。パウロは福音を宣べ伝えることについて情熱を持っており、彼の目的は「より多くの人を獲得する(19b)」ことでした。

ゴードン・フィー教授は次の通りに書いている通りです。「(パウロは)福音そのものに影響を及ぼす事柄において非妥協的であったのに反して、神学にも行動にも、救いの力であるその福音に対する同じ関心は、数えきれない事柄において、パウロをすべての人々のためにすべてのものとならせたものなのです。」

パウロは記します。「私は彼らの世界に入って行き、彼らの視点から物事を経験してみようとしたのです。(22,MSG訳)」これは、多分、聖パウロの思いの内にあった領域を超えて幅広く応用できるものです。些細な例ですが、あなたが何を着ようとするかにも影響を及ぼします。それはあなたが話そうとする人々を遠ざけるためではなく、あなたと同一感を持つことができる服装であるべきです。

パウロはすべての人の奴隷になることを意志したのに反して、彼は自分の肉欲の奴隷になることは意志しませんでした。彼は人生をレースに見立てました(24)。自分自身を走者として、「厳しいトレーニング」をすることを必要としていると理解していました(25)。アスリートのように、彼は自分自身の肉体について情け容赦ないものであらねばなりませんでした。それを彼の奴隷とするのは、人に宣べ伝えておきながら、「自分自身が失格者になるようなことのないためです。(27)」自己訓練は基本です。あなたの身体、思考、口、感情を制御しましょう。

パウロは、多くの誘惑が周りにあることを知っていました。パウロは自分自身の民の歴史からこのことを理解していたのです。「彼らの多くは、荒野で困難に遭ったとき、誘惑によって打ちのめされました。そして神はそれを喜ばれませんでした。(10:5,MSG訳)」

彼らは自分たちの心を「悪をむさぼる(6)」ことに置いてしまったのです。彼らは「性的に乱れて(8,MSG訳)」いました。彼らは神を試しました(9)。彼らは不平をつぶやきました(10)。「私たちは、不満をかきたてないように、用心深くあらねばなりません。不満が彼らを滅ぼしたのです(10,MSG訳)」

「私たちには『あぶない!』と告げてくれる警告者がすべての歴史の書にあるのです。それは、彼らの犯した間違いを私たちが繰り返さないように記されたものなのです。物語の中にある私たちの立場はよく似ています。彼らは始めにおり、私たちは終わりにいるのです。そして、彼らがそうであったように、私たちもまた失敗する可能性を持っているのです。無邪気にならず、自分を過信してはなりません。あなたも例外ではありません。あなたも他の人たちと同じように簡単にばったりと倒れてしまう可能性があるのです。自分を過信しないようにしましょう。それは無益です。それよりも、神を信頼することを養いましょう。(11-12,MSG訳)」

あなたは彼らがそうであったように誘惑にさらされています。「あなたの道にやって来た試練や誘惑で、今まで誰かの道で遭わなかったものはありません。あなたが覚えておくべきすべてのことは、神は決してあなたを引き倒してしまわないということです。神はあなたを過去のあなたの限界に追いやることはありません。神はいつもあなたと共にいてあなたがそこから抜け出していけるように助けてくださいます。(13,MSG訳)」

自分自身に次の2つのことを自問してみましょう。

  1. 私自身の欲望の奴隷にならないことを、私はどのように確かにできるだろうか?
  2. 今日、私が出会うすべての人々に、私はどのように仕えることができるだろうか?

祈り:主よ。「朽ちない冠を受けるため」自分自身に厳しい訓練を与えることが出来ますように。誘惑に陥ることを避けることができるように助けてください。あなただけを礼拝し、あなただけに仕えることが出来ますように。


あなたはどのようにして礼拝し仕えますか?

2歴代 2:1-5:1

ニッキー・ガンベルが好感を持ち尊敬していることの一例として、ヒルソング・チャーチが彼らの素晴らしい礼拝で手本を示していることがあります。彼らは自分たちの音楽の詳細をすべて公開し、礼拝をより良いものにしたいと願うボランティアを募り、トレーニングしています。

礼拝の多様性は教会の多様性の顕れであるとニッキーはとらえ、それを喜んでいます。究極的には様式は重要ではありません。私たちの礼拝は卓越したものであるべきです。私たちは神の栄光のために礼拝するのですから、私たちの持てる資源を用いるという点において、礼拝は最高の優先順位であるべきです。

ソロモンが「神の栄光を礼拝する家(2:1,MSG訳)」を建て始めた時、彼はこう言いました。「私たちの神が最高のお方なので、私が立てようとしているその家は最高のものでなければなりません。…私が建てているこの家は空前絶後のものとなるのです。それは目を見張る神殿!(5,9,MSG訳)」

卓越性の達成のために貴重な材料が用いられ、時間と労力が費やされました。それには事細かな特別な注意が払われました(2-4章)。神への礼拝を最高の質に高めるために細心の注意が払われたのです。

これがふんだんに金が用いられた理由です(4:21-22)。スポーツ選手が優勝した時に金メダルを受けるのは、それが最高を意味するからです。ですから、私たちが神を礼拝し、神に仕える時、私たちの最高のものを神にささげなければなりません。

パウロがコロサイの人々に書き送ったように、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。…あなたがたは主キリストに仕えているのです。(コロサイ3:23-24)」

説教家、チャールズ・スポルジョンはかつて、クリスチャンになったばかりの掃除婦に話しました。スポルジョンは彼女にイエスによって何が変わったかを尋ねました。ちょっとおずおずしながら彼女は答えました。「あの~、ご主人様。私は今はドアマットの下を掃くようになりました。」彼女は究極的にイエスの仕え、礼拝することを自分の仕事の中に知りました。
いい加減な生き方をやめたのです。

祈り:主よ。日常に関心を払うことに、私たちの礼拝やあなたに仕えることを得させてください。そして、私たちが為すすべてのことが最高の質へと高められますように。アーメン。

H.K

References

Gordon D. Fee, The First Epistle To The Corinthians, (William B Eerdmans Publishing Co, 1987) p.431