2019年2月20日
第51日
神と出会う方法
1949年、イギリスの歴史の中で最も偉大なリバイバルの一つがヘブリディーズ諸島で起こりました。リバイバルの真っ只中にいた説教者はダンカン・キャンベルでした。彼はどのようにそれが始まったのかを後に記しています。
7人の男と2人の女がリバイバルのために熱く祈ることを決心しました。ある夜、納屋で祈り会が持たれたとき、一人の青年が自分の聖書を取り詩篇24篇(今日の箇所)から読み始めました。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者…。(24:3-4a)」
彼は聖書を閉じ、こう言いました。「もし、私たち自身が神との正しい関係にないのなら、私たちが祈っている祈りも、私たちがここで待っている待望も、ただの感傷的なまやかしに思えてきた。」彼は、神にリバイバルのために、自分自身の手がきよく、心がきよらかかどうかを尋ねました。
その夜、神は力強い方法で彼らと出会われたのです。彼らが神を待ち望んでいると、「神のとてつもない臨在が納屋に流れ込んできたのです。」彼らはリバイバルは常にきよさに関連していることを理解するに至りました。力は教区の中心から外縁までを揺さぶって解き放たれたのです。
「3人の男は神の力によって藁の上に倒れました。彼らは普段の状態から尋常ではない状態に引き上げられました。彼らは、神が彼らのところに訪れ、彼らも、彼らの教区も、もはや今までと同じではおれないことを知りました。」
6キロメートル余り離れたところに、82歳と84歳の二人の姉妹が神のビジョンを見ました。彼女たちは教会が人で溢れ、若者や町の人々が教会の中にひしめき合っているのを見たのです。彼らは「リバイバルの栄えある力の内に神がやって来る保証を得たのです。
ダンカン・キャンベルは彼らのところに来て話すように招かれました。彼が教区の教会に到着したとき、中は人で溢れ、外には何百もの人々が待っていました。誰も彼らがどこから来たのかを説明することができませんでした。礼拝が始まると10分も経たないうちに男も女も神に叫んだのです。彼らは神の全ききよさのうちに神と出会ったのです。
その島を訪れたビジネスマンが神の臨在の感覚がとてもあったと言いました。「私が一歩踏み入れた瞬間、私は神の臨在を突然意識しました。」神はご自身の民と出会ってくださいました。
あなたはそして私は、どのように神と出会いますか?
偉大な特権
詩篇24:1-10
ダビデはこの詩篇で、まず神が力ある創造主であることを思い起こさせることから始めます。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。(1)」そして最後には神が栄光の王であることを思いに刻みます。5回にわたってダビデは「栄光の王」に言及しています。(7b,8a,9b,10a,10b)神は「万軍の主。これぞ、栄光の王。(10b)」
神の威光あるご性質の光のもとで、「だれが、主の山に登り得ようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。(3)」とダビデは問います。そして、その答えは完全にきよい人だけです。「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人(4)」
しかし、このような人は誰もいないことを私たちは知っています。イエスを通してのみ私たちはきよくされ、確信をもって神に近づくことができるのです。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル10:14)」
祈り:主よ。私はあなたと出会いたいのです。手がきよく、心がきよらかな者となさせてください。イエスの血潮によってきよめられることを感謝します。私をお赦しください。きよめてください。そして、再び聖霊で満たしてください。
信仰の行動
マルコ5:21-6:6
あなたは、長期間にわたって、全然良くなっていないように見える人生の問題に葛藤しておられますか?(5:26)今まで、「不安に駆られたり」、「恐れに怖気づいたり」私たちはしたことがありますか?(5:36)この箇所で、このような状況にある人々にイエスがどのように対応したかを見ます。
新約聖書の中に、私たちはイエスを通して神と出会った人々の尋常ではない様子を感じます。聖ヨハネは(1ヨハネ1:1)、「いのちのことば」について記しています。そのお方は、私たちが「聞き(マルコ5:27)」、「目で見(22)」、「手で触った(27,30-31)」お方です。
イエスのもとに触れようとやってきた人は神の聖なる臨在のもとにやってきた感覚を覚えました。ヤイロはイエスの足元にひれふしました(5:22)。長血から癒された女もひれ伏しました(33)。
この女は12年もの間不治の病に悩まされました。その当時は治療の術がありませんでした(26)。そして「イエスのことを耳にして(27)」彼女は信仰の応答をしたのです。衣のすそをさわることだけでもできればと考えそっと触りました。彼女には「きっとなおる。」と考えていたからです(28)。そして、出血は止まり、痛みが直ったことを感じました(29)。
イエスに触れることは、人々に深いインパクトを与えます。イエスは女に「…安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。(平和のうちに行きなさい。あなたの苦難から自由でありなさい,NIV訳)」(34)と言いました。12年間の痛みは平和と自由に置き換えられたのです。あなたが人生に葛藤しており、しかもそれが長く続いていたとしても、この女のように、イエスに助けを求めイエスのところに行きましょう。
ヤイロの娘は生き返ることによって、イエスと出会う究極のインパクトを体験しました。イエスが到着したとき、信仰の雰囲気はまったくありませんでした。そこにあったのは動揺と慟哭でした。彼らは言いました。「なぜ先生をこれ以上煩わすのか?」(NIV訳,35)しかし、イエスは言いました。「不安に駆られてはなりません、そして、恐れに怖気づいてはならない。ただ信じ続けていなさい。」(AMP訳,36)
イエスは「子ども死んだのではない。眠っているのです。(39)」と言いました。イエスが彼女をこれから起こすまでは、彼女の死は永続するものではなく、眠りについているだけなのです。使徒パウロは同じように「眠りにつく」という言葉を用いています。あなたが深い眠りにつくとき、次にあなたが体験するのは朝目覚めることです。キリストにあって死んだとき、次にあなたが知ることは、あなたが主とともにいるということなのです。
イエスが連れて行ったのは信仰を信頼することのできるたった3人の弟子たち(そしてその両親)でした。イエスが彼女を死からよみがえらせるには、信仰の雰囲気がそこにあることを願ったように思えます。
イエスは「超・霊的」であったのではありません。イエスはとても実践的です。イエスは「少女に食事をさせるように(43)」と彼らに言いました。ここでも再び、記述は初めは恐れを伴い、終わりは信仰を伴っています。
イエスが「非常な驚き(42b)」に包むこと、そして「驚く(6:2b)」ことをするのを人々が見るとき、すべての人がそのように反応するわけではありません。もちろん、それは今日においても同様です。ある者は「あざ笑い(5:40)」、ある者は「つまづき(6:3)」ます。イエスは故郷で、「尊敬されない預言者(6:4)}だったのです。イエスの最も近くにいた人々が、イエスが何者であるかを認識することができなかったのです。時々、私たちも一番よく知っていることを取り扱うのが難しいことがあるものです。
現代において、ある人々はイエスを認識し、ある人々は完全に見失っています。この違いの鍵は、彼らが「信仰」を持っているかどうかです。イエスは病気の女に言いました。「あなたの信仰があなたを直したのです。(5:34)」イエスはヤイロに言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。(36b)」そして、イエスの故郷では「彼らの不信仰に驚かれた。(6:6)」のです。
十字架の上のイエスの死を通して、イエスは神と出会うための手順を完了しました。今は、信仰によって、あなたも私もイエスと出会うことができ、イエスを通して、神と出会うことができるのです。
祈り:主よ。私を批判や懐疑主義からお守りください。信仰によってあなたにお出会いすることができることを感謝します。主よ。私の信仰を増してください。私が「不安に駆られたり」「恐れに怖気づく」時、「信じ続ける」ことを助けてください。
イエスを通して神に出会う
出エジプト27:1-28:43
旧約聖書の背景を知ることなしに、私たちは神から頂いた特権がどれほど驚くべきものなのかを理解することができません。ここで、「会見の天幕(27:21)」の記述を見ます。(そこで神はモーセや祭司たちと出会いました。30:36,28:30)「神の臨在に入る(28:30a,NIV訳)」ことは畏怖の念に駆られることです。アロンは「聖所に入り、主の前に(35)」出たのです。
ヘブル人の手紙の作者はこのポイントをすべてイエスにあてて説明します。天幕はただ「天にあるものの写しと影(ヘブル8:5a)」なのだと説明しています。祭司でさえ、入ることが許されたのは「聖所」であって、「至聖所」には入ることができませんでした。「これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。(9:8)」この幕屋はその当時のための比喩です。(9)
ヘブル人への手紙の作者が見せているように、この箇所は私たちの代表となってくださったイエスの犠牲のための背景を形作っているのです。それは、イエスの血によって、あなたや私がきよい神と出会うことが可能となるように、「ただ一度(26)」犠牲となってくださったのです。
祈り:主よ。イエスの血によって私が至聖所に入り、主の臨在に近づくことができるようにしてくださったことを感謝します。イエスを通して、「一つの御霊において、父のみもとに近づくことができる(エペソ2:18)」ことを感謝します。あなたとお出会いできることを感謝します。アーメン。
H.K
References
Duncan Campbell, The Price And Power Of Revival, (Faith Mission, 2000)