Tokyo Chapel

2019年6月7日

第158日

試練と誘惑

アメリカの牧師でヴィンヤード運動の開拓者であったジョン・ウィンバーは世界中の教会に大きな影響を与えました。彼は63歳で亡くなりました。彼の人生は多くの困難に満ちたものでした。

彼は数多くの非難の的となりました。ある時、彼は私にこう言いました。「評判というものを楽しく思える時期は短い。そのあとは、ただ、いざこざがあるだけだ。」多分、彼の心を傷つけたのは、どんなことよりも、彼の最も身近にいた息子のように愛し養った3人が皆、誘惑に遭い、道徳的な罪に陥ってしまったことだったでしょう。

神はジョン・ウィンバーを格別に用いましたが、彼と彼のチームは多くの試練と誘惑に遭いました。人生というものは、そして、聖書はそのことについて決して甘くはありません。普通、私たちに一つの闘いが浮かび上がってくるとき、さらに別の闘いが角に潜んでいるものです。それが人生の闘いというものです。


神に信頼する。

詩篇71:1-8

今日の詩篇は困難と圧迫に対する示唆に富んでいます。たとえ、そのすべてを通っても、詩篇の作者は「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。(6)」と言います。この詩篇の中に、私たちは神が関わってくださっているという頼りになる3つの面を見ます。

  1. 祈り
    あなたが祈ることのできる祈りがここにあります。「主よ。私はあなたに身を避けています。…あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。(1-2)」
  2. 忍耐
    ひとたび、神に助けを叫び求め主に重荷を委ねたならば、主に希望を置き、信頼することです。「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。(5-6)」
  3. 賛美
    あなたは闘いの前に、また最中に、そして後で賛美することができます。「私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。(8)」

祈り:主よ。将来を見て、そこに闘いが待ち受けていても、あなたに信頼を置くことができますことを感謝します。


勇気を得よ!イエスが共におられる

使徒4:1-22

正真正銘のキリスト教は何らかの反対や試みに遭うものです。ここでは、弟子たちが投獄され、文字通り裁判という試練(trial)に遭いました。要するに、彼らはクリスチャンであるということを理由に犯罪者として捕らえられたのです(まだこの当時は「クリスチャン」という呼称はありませんでしたが)。キリスト教の歴史において、世界の中で迫害がなかった時代はひと時もありません。

美しの門で男が癒されたことは議論の余地がありませんでした。福音書においてはイエスが奇跡を行いました。使徒の働きにおいては普通の人が「イエスの名によって」奇跡を行いました。「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか(7)」と問われた時、聖霊に満たされたペテロは「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。(10)」と答えました。今日、あなたもこの力強い方法で祈ることができるのです。

ペテロは裁判官たちに勇猛果敢に、彼らがこの世界の救い主をイエスを十字架につけた罪責があることを告げました。彼らはイエスを拒み、十字架につけたのです。ペテロはイエスを知っていたにもかかわらず、女中にそう知られることに怯えましたが、今や彼は全く違っていました。ペテロは、イエスが同じように裁判にかけられた場所、そしてイエスが十字架にかけられた場所から500mも離れていないその法廷で公にイエスとその復活を告白しているのです。

その鍵は、ペテロは復活のイエスに出会い、そして「ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。(8)」ということです。今や、彼はイエスが何を為さるために来られたかを知り、聖霊を通して、イエスは彼とともにおられ、そして彼を助けてくださると知ったのです。

ペテロはさらに続けます。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(12)」

「ペテロとヨハネは確信をもって、しっかりとそこに立っており、二人に彼らの目は釘づけになりました!この二人が正式な聖書の教育を訓練されたことのない、ただの信徒であることに彼らが気づいた時、彼らは深く仰天しました。彼らは二人がイエスと行動を共にした仲間であることを認識したのです。(13,MSG訳)」これらのことは驚くまでもありません。

ペテロとヨハネは正式な教育を受けていない無学な、普通の人でした。しかし彼らは「イエスの学友」であったのです。彼らはイエスの弟子たちでした。彼らは「神のみことばカレッジ」におり、今や彼らは「聖霊大学」で学んでいるのです!多くの人々は、たとえ正式な教育をあまり受けていなくても神によって大いに用いられるのです。

ペテロとヨハネはイエスのことを語ってはならないと脅されました。しかし、彼らは答えました。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。(20)」

二人が裁判たちに面した時、彼らは皆が驚くべき奇跡が起こったのを見ることができたという事実によって大いに助けられました。40歳になるこの癒された男はそこに立っており、イエスの力の生きた証しとなっていたのです。

祈り:主よ。あなたの霊で私を満たしてください。そしてペテロやヨハネと同じように勇気を与えてください。そうして、どんなに犠牲を払っても、またどんなに反対があっても私はイエスを語り告げます。あなたの最初の弟子たちを通してあなたが為されたように私たちも目を見張る奇跡を見ることができますように。


神を喜ばせることに心がける

2サムエル11:1-12:31

英語の表現で、「You are the man!(直訳:あなたはその男です!)」というのは「すごい男だ!」という誉め言葉ですが、しかし、聖書の中では忘れられない忌まわしい言葉でしょう。それはダビデにまつわる言葉です。ダビデは誘惑に勝てずに罪に陥りました。彼は秘密裡にやり過ごそうとしましたが、神は全てをご覧になっていました。短い表現ですが聖書は「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。(11:27)」と記します。

どこに間違いがあったのでしょうか?

ダビデの最初の過ちは一人でエルサレムに残ったことでした(1)。もし、彼が民と共に闘いに出ていたなら、彼は家にいてささいなことから誘惑に遭うことはなかったことでしょう。かつてジョン・ウィンバーは言いました。「座ったままで良く居続けるのは簡単じゃない。」私たちが正しい場所にいる時間でいっぱいであれば、誘惑に陥ることはもっと少なくなるでしょう。

ダビデは徐々に道を踏み外しました。彼は「絶世の美女(2,MSG訳)」が水浴びしているのを見たのです。この時点ではまだ「誘惑」であって「罪」ではありませんでした。しかし、彼の思いが囚われて、彼女を調べさせ、遣いをやって彼女を召し入れ、大きな罪を犯してしまったのです。

当時の規範からすれば、それは他の王たちも同じようなことをしたと言えますが、彼はそれをしていないことをにしようとたくらみました。その結果、忠実な家臣ウリヤの殺人へと至りました。常に一つの罪は別の罪を生み出します。それを隠そうとするともっと悪くなります。

預言者ナタンの言葉はダビデに突き刺さりました。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、…救い出し…与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。(12:7-9)」ダビデは台無しにしてしまっただけでなく、彼はそのことをもっと知っておくべきだったのです。

驚くべきことに神はこの大きな罪を赦されたのです。(13)。主に前に罪を認め告白するなら、赦されない罪はありません。神の恵みはどこまでにも届きます。あなたがたとえどんなことをしたのであっても、神はあなたをお赦しになることが出来るのです。

赦しを受け取るための鍵は、自分の罪過を告白し、自分がしたことを悔い改めることです。これは、「罪を犯したときに神が赦した」ダビデと「神が赦さなかった」サウルとの大きな違いです。サウルは自分の正しさを貫こうとした(1サムエル15参照)のに反して、ダビデは単純にすべてを認めました。ダビデは言いました。「私は主に対して罪を犯した。(2サムエル12:13)」要するに彼はただ「ごめんなさい。」と言ったのです。

赦しとは私たちが為した行動の結果を消し去りはしません。ダビデの場合、その結果は甚大でした。ダビデは、幼い息子が死にました(13-14)。そして神は暴力的な行為の結果を警告しました。「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。(10)」ダビデの罪の結果はその後長く続くことになったのです。

そうであっても、これでダビデは終わってしまったのではありません。神はダビデを捨てませんでした。彼の息子は死んでしまいましたが、希望が残されました。やがて彼らは再び一つにされるのです。「私はあの子のところに行くだろう(23)」と。それだけではなく、神はダビデにもう一人の子、ソロモンを与えました。そして、「主はその子を愛された(24)」のです。

これらの顛末は私たちに戒めと励ましを与えています。それは、私たちは自分の人生に責任を持っており、分別を持ち、始めから助けを受け、祈りをもって自分の生活が誘惑に陥らないように見守ることです。

そして、もし罪を犯したなら、ダビデのように罪を認め告白し、悔い改めることです。たとえ失敗しても神は赦してくださいます。神はあなたを立て直し、再び祝福してくださるのです。

祈り:主よ。私の心、そしてすべてのあなたの民の心をお守りください。あなたに忠実であることができますように。アーメン。

H.K