2019年10月27日
第300日
難解だが興味をそそる矛盾
私は「聖書は矛盾に満ちている」ということが、しばしば言われるのを耳にします。それは確かに事実です。一見、矛盾と見えることがたくさんあります。
難解な矛盾に直面した時…
・聖書全体としてのメッセージの中に外見的な矛盾を調和させることが出来るかを探査する
・とってつけたような調和のさせ方を避ける
・忍耐深くあれ ― 待つことをいとわず、未解決の疑問を持ったまま生きる
答えるべきか、答えざるべきか?
箴言26:3-12
「愚かな」「愚か」「愚かに」などの言葉は69回、箴言に登場します。その愚かさは、称賛される知恵ある人の反対として箴言の作者は表しています。
箴言の作者は言います。
・「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。(4)」
・「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。(5)」
これは外面上はっきりとは理解できない矛盾です。もし、二つの節が聖書の別の箇所に書かれたものであるなら、明らかな矛盾として受け入れなければならないでしょう。しかしながら、これらは隣同志の節に記されているという事実を考えると、作者の目に矛盾とは思っていないのだということが、示唆されます。
批判はしばしば、とても役に立つものです。そして私たちはそれから多くを学ぶことができます。しかしながら、時々、批判が無知から(「愚かさ」から)来ることがあります。私たちはどのように応じればいいのでしょう?そこにはジレンマがあります。一方で私たちはそれに対して答えたくありません。なぜなら、ある意味で、その批判(愚かな者,4)のレベルまで落とされることになるからです。
他方、私たちはそれに応えたいと願います。なぜなら、さもないと、その批判を彼らが正しいと感じてしまい「自分を知恵のある者(5)」と思ってしまうかもしれません。
愚か者は誰か他の人であって、自分ではないというように思うことは大きな誘惑です。もし、私たちがそう思うなら、私たちは「自分を知恵のある者」としているわけです。「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(12)」これが話のオチです。どのようにして愚か者になりえるのかを見せることでニヤっと笑った後で、私たちが自分が知恵があると思った時に、私たちは愚か者よりももっと愚かになるのだということを思い起こすのです。
祈り:主よ。「自分を知恵のある者」とすることから私をお守りください。すべての私の決断と批判に対してどのように答えるかに知恵を与えてください。
「退屈」それとも「魅力的」?
テトス2:1-15
もしキリスト教がこの世界にとって信用でき、魅力的なものであるなら、クリスチャンは信頼できる魅力的な生活を送らなければならいません。
パウロはテトスに、私たちがあらゆる面で「私たちの救い主である神の教えを飾るようになる[魅力的なものにする,NIV訳](10)」ようにと書き送りました。女性に教えることについてパウロが書き送った指針は、敬虔で、自制し、純粋で優しくするなどで、それは「神のことばがそしられるようなことのないためです。(5)」
同様に、パウロはテトスに対しても自制、誠実さなどについて指針を与え、それによって、誰も「私たちについて、何も悪いことが言えなく(8)」なるように指導しました。
しかしながら、私たちはパウロの指針を読むとき、それらは二十一世紀の私たちの文化において魅力と考えることとは正反対であると言えます。彼は「健全な教え(1)」「慎み深く(2)」「自制し(2)」「健全な信仰(2)」「敬虔(3)」「大酒のとりこにならず(3)」「徳が高く、純粋(5,MSG訳)」「活き活きと訓練された生活(5,MSG訳)」について語り、不敬虔とこの世的な情熱とに「ノー」と言い、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活する(12)ように言うのです。
これらすべては、現代人の耳にはあまりにも魅力的ではないように響きます。しかし、誰かがこのように生きているのを実際に見る時、― 二つの例を挙げると、マザー・テレサや教皇フランシスなど…、それはとても魅力的なのです。私たちの文化ではきよめという考え方は好ましく思われません。しかし、人々がきよい生き方を見る時、彼らはそれに魅了されます。本当の「きよめ」はあなたがそのような人々を見つける時よりも、すべての人から離れたもっと活き活きした時なのです。
シモーヌ・ヴェイユは言いました。「架空の悪はロマンティックで変化に富んでいる。現実の悪は、陰鬱で、単調で、無味乾燥で、退屈である。架空の善は退屈である。現実の善はいつも新しく、素晴らしく、うっとりとする。」
「尊厳と知恵」、「健康な信仰」、「愛」(2,MSG訳)の生活は何か美しさがあります。「善のお手本」であり「徳が高く、純粋」な人々は(3,5,MSG訳)「神に満たされ」、「神に栄誉を帰す生活」(12,MSG訳)を行動することを通して良い性格を輝かせます。
イエスはあなたや私のために死んでくださいました。それは「暗闇の反抗的な生活から私たちを、この良い、純粋な生活へと自由にするためであり、私たちをご自身の誇りとする、善においてエネルギッシュな民とするためです。(14,MSG訳)」
祈り:主よ。あなたについて教えることが魅力的であるように私の生活と私の愛を用いてください。
信仰と疑い?
ハバクク1:1-3:19
疑い、疑問、恐れは信仰と両立するのでしょうか?あなたは結婚生活の(あるいは結婚相手が見当たらない)、あなたの家族、あなたの仕事、あなたの健康、あなたの経済やそれらすべての複合的な問題に直面していますか?これは神の存在をあなたに疑わせますか?あなたは信じるのをやめますか?
多くの人々は信仰を疑問を抱かないものとみなします。彼らは信仰と疑いを正反対のものだと考えます。実際は、信仰と疑いは同じコインの裏表です。2+2=4であることは疑いの余地がありません。しかしながら、それを信じるにはどんな信仰も要りません。その一方で、誰かがあなたを愛していることを信じることには、疑いという要素が残ります。あなたが神への信仰を持つことは誰かを愛することと似ています。そこにはいつも疑いという可能性があるのです、疑いが無ければ、信仰は信仰ではないでしょう。
同じように、信仰という文脈において神に質問することは間違っていません。ハバクク書は信じているが質問する一人の男とともに始まります。その締めくくりは、旧約聖書の他の箇所には匹敵する箇所がほとんどないほどの信仰の高嶺を表現しています。
ハバクク書はこの世界を見て、途方に暮れ、恐れおののきます。ハバククは「暴虐(1:2)」「わざわい(3a)」「暴行(3c)」「闘争があり、争い(3d)」を見ました。しかし主は、彼に対して、それをどうすればよいかを示していないように思えます(2-4)。ハバククは痛みと苦難を見て「あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。なぜ…?(2-3)」と尋ねます。
彼は神に問題を投げかけ、心に感じた疑問を純粋に尋ねました。神は驚くべきことをしようとしていると答えますが、それはハバククが予期したものとは異なりました(5)。神はバビロン人たちを興していました(6)。結果的に、イスラエルは圧倒され、捕囚へと引き連れられていくことになったのです。
ハバククは当惑しました。本当に神は歴史を支配し、力を働かせていたのだろうか(12)?純真な神がどのようにして、残虐で偶像崇拝しているバビロン人たちを神の国を罰するために用いるというのだろうか?「神よ。あなたは裁きの業の為にバビロン人をお選びになるのですか?…本気じゃないんでしょ。まさか悪をお許しになるのですか!(12-13,MSG訳)」ハバククは直接答えを得たようには見えません。しかしながら、彼は当惑した不満と問題を神に持ちつつ、それらを神に委ねながら待ったのです(2:1)。
神は幻を書き記すように最初に語りました(2)。神があなたに語り、あなたに幻を与えたように感じる時、あなたが後から読み返し、しっかり握ることが出来るように、書き留めておくことは良いことです。第二に、神はハバククに答えを待つように言いました。「それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(3)」
神はあなたにあなたの疑いを持ってきて、神に尋ねて欲しいと願っておられるのです。あなたは、すべてのあなたの質問に、いつも即座に答えが与えられるわけではありません。あなたが答えを待っている間、神がなさることが完全に理解できない時でさえ、あなたは神に信頼するように召されているのです。
信仰とは、あなたが直面する困難にもかかわらず、神が語ったことを信じることを含むのです。「正しい人はその信仰によって生きる。(4)」ハバククは不敬虔なバビロンへの裁きが来ることを予見したのです。彼はまた、ある日、不法が打ち砕かれ「水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる(14)」のを予見しました。彼は究極的には善が悪に対して大勝利することを先に見ていたのです。
その時まで、何が起ころうとも神の近くに留まることに、ハバククは解決を得たのです。
彼は不平を言わず、賛美することに自分自身を献げました。彼は長期的な視点を持つことと忍耐することに解決を得たのです。彼はどのような環境にあっても喜ぶことで解消しました。彼は、実を結ばない期間も、自分自身を信仰に委ねたのです(3:17-19)。
神は、どれほどの収穫があるかということよりもあなたの心に関心があるのです。あなたが他に何も見出すことが出来なくとも、あなたは主との関係に喜び得ることが出来るのです。ハバククは言います。「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。(18)」神は彼に確かな足と光ある心を設けました。「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。(19)」
ジョイス・マイヤーが記している通りです。「私たちは『雌鹿の足』を育てるために私たちの困難を許容する必要があります。私たちが雌鹿の足を持つとき…私たちは、問題、苦難、責任、私たちが耐えられないようなあらゆることを通して、私たちは歩み、前進していくのです。」
祈り:主よ。私が即座に答えを理解することが出来ず、私が正直に私の疑いと疑問をあなたに表現する時、あなたを完全に信頼することが出来ますように。アーメン。
H.K
References
Joyce Meyer, The Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) p.1434
Simone Weil, Gravity and Grace, (Routledge, 2002) p.70.