2019年12月31日
第365日
始める方法と終える方法
ある若い女性が私に次のような質問をしました。「天国ってどんなところなんですか?天国で私たちの身体ってどんなふうなんですか?私たちって飛べるの?性別ってないのかしら?その時エデンの園を見ることが出来るのかしら?家族や友達ってその時分かるの?私たちが持つことになる友情ってどんなものかしら?その時私たちは何をするの。そこでも聖書研究やアルファがあるのかしら?じゃあ誰が会衆なの?」
聖書は私たちのすべての質問に答えてはいません。
私の本棚には「世の終わりに起こる50の顕著な出来事」という題名の本があります。それは1997年に書かれたものです。そこにはイエスはAD2000年に再臨すると予期されていました。これは結果的には偽物になってしまう「世の終わり」の時期を予見しようとする多くの誘惑の一つです。トニー・カンポーロが賢明なこととして言っている通り、神は「計画委員会」よりも「歓迎委員会」を願っているということなのです!
私たちはいつ世の終わりが来るかを語られてはいません。しかし私たちはどのようにそして誰を待っているのかについて語られています。鍵は誰であるかです。イエスは言いました。「わたしは…初めであり、終わりである。(黙示録22:13)」もちろん、「終わり」と「初め」は非常に異なるものです。しかしながら、始めも終わりも意義深い類似性があると言えます。
礼拝とともに始まり、礼拝とともに終わる
詩篇150:1-6
最後に、神の「しもべは神に仕える、―すなわち礼拝すること―を申し出ます。彼らは御顔を仰ぎ、彼らの額は神を映し出しています。(黙示録22:3,MSG訳)」私たちが顔と顔を合わせて神を見るという応答は、永遠の礼拝となります。
英訳では「主を誉めよ(詩篇150:6b,NIV訳)」となっていまが、詩篇の最後は「ハレルヤ」です。詩篇150篇はハレルヤで始まりハレルヤで終わっているのです(1,6)。私たちは皆、礼拝に召されています。「生きている、息あるすべての被造物よ神をほめよ!(6,MSG訳)」
- どこでも礼拝する
神の礼拝は宇宙に満ちるべきです。「神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。(1b)」 - あらゆることのゆえに主を礼拝する
神が神であられるがゆえに神を賛美する(「そのすぐれた偉大さのゆえに」)そして、神が為してくださった事柄のゆえに神を賛美する(「その大能のみわざのゆえに」,2) - あらゆる方法で礼拝する
あなたが持っているすべてをもって神を賛美する。それにはあらゆる種類の音楽やダンスが含まれます(3-5)。
祈り:主よ。あなたのすぐれた偉大さとあなたの大能の御業のゆえに賛美します。私は全宇宙の創造者でありながら、私を個人的に愛してくださるあなたを礼拝します。
イエスとともに初め、イエスとともに終わる
黙示録22:1-21
最後において、それはただイエスについてです。いつもただイエスについてでした。それはこれからもただイエスについてです。あなたの人生、あなたの思考、あなたの奉仕、あなたの伝道、その他すべてのものをイエスに焦点を合わせて今始めなさい。
聖書はイエスとともに始まります。宇宙の創造(創世記1-2章)は実際イエスを通して為されました。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1,3)」
聖書はまたイエスとともに終わります。「アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(黙示録22:10b-21)」イエスは「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(13)」
私たちは終わりに世界がどのようになるかを見ます。言語は比喩的です。それは正確な描写ではありませんが、いのちと祝福のイメージに満ちています。聖書は「いのちの木」と共に始まり終わります。それは神の祝福の命と神のご自身の民のための「良い」計画を象徴しています。
新しい天と新しい地において、そこには「命の水の川」が流れています(1)。これはイエスが言及した、聖霊から流れる「生ける水の川(ヨハネ7:37-39)」であり、エゼキエル47章の預言の成就です。それは「諸国の民をいやした(黙示録22:2)」のです。国の内外で、「国々の一致」をどれほど渇望したことでしょうか。それが現実に為される時、どれほど素晴らしいことでしょう。
「いのちの木があって、…毎月、実ができた。(2)」それは初めにあった(しかし罪のために人間には禁止されていた)ものが、すべての人々のために再び解禁されるのです。エデンの呪いは取り除かれたのです(3)。木という言葉(xylos)は新約聖書では時に十字架の意味で用いられます(たとえば、使徒5:30)。
終わりには、あなたは神の御顔を見るようになります。神の顔を見て生きることはできませんでした(出エジプト33:20)しかし、新しい天と新しい地では、あなたは主の御顔を見、主の御名はあなたの額にあるのです(黙示録22:4)。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。(5a)」そして、あなたは主とともに永遠に統べ治めるのです(5b)。
新しい天と新しい地に待ち望むものはたくさんあります、イエスは約束します。「わたしはすぐに来る。(7,12,20)」
「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(17)」
聖書はイエスのもとに来るように招く、1つの長い招待状です。主にあって、あなたはあなたの人生に意味と目的を見出すことが出来ます。その目的の一部は他の人々に来るように招くことです。そうして、彼らは、イエスがみもとに来るすべての者に注がれるいのちの水のみずみずしさと成就を見出すようになるのです。
聖霊と教会は、聖なる都の素晴らしさを得る機会を失うことなく(11a,15,19)、神がその人々に与える驚くべき賜物を、人々が来て受け取るようにと招いています。彼らもまたイエスの再臨を祈ります。「主イエスよ、来てください。(20)」
祈り:主よ。やがて、私が、私の心の充足を得るいのちの水を飲むようになることを感謝します。私があなたの顔と顔とを見て、永遠にあなたと共に統べ治めるようになることを感謝します。主イエスよ、来てください。
愛とともに始まり、愛とともに終わる
ネヘミヤ13:1-31
ネヘミヤ記は、聖書全体と同様に、愛とともに始まり、愛とともに終わります。ネヘミヤ記は「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。…契約を守り、いつくしみを賜る方。(ネヘミヤ1:5)」という祈りで始まりました。
ネヘミヤ記の締めくくりにあって、ネヘミヤは「私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。(13:22)」と祈ります。
この最後の章で、私たちはネヘミヤの最終的な改革を読みます。彼らは「モーセの書」を読み(1)、どのようにして「私たちの神はそののろいを祝福に(2)」変えてくださるのかを読みました。これは聖書を貫いているパターンです。「神を愛する人々、…には、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8:28)」のです。今まさにあなたが自分の生活の中で直面しているものが、のろいのように思えるかもしれません。― 健康問題、人間関係の葛藤、難しい上司、などなど。それは、のろいのように見えるかもしれませんが、神はそののろいを祝福に転じることがおできになるのです。
良き指導者として、ネヘミヤは「忠実な者と認められていた(13)」人々を選び、働きを任せました。―「誠実で働き者だと評判がよい者たち(MSG訳)」
時々、神は私たちの忠実さをテストなさいます。あなたは今まで本当に自分がしたくない何かをするように求められるような状況に自分が置かれていること、あるいは、すべてあなた自身が抵抗したいと思う権威にしたがななければならないことを経験したことがありますか?
しかし、これらの挑戦は、楽しさや興奮を理由とせず、ただ忠実さと、良い態度、実直さが求められて何かをするための機会なのです。そして、神はそのような忠実さに報いてくださるのです(ルカ16:12)。
ネヘミヤは多くを成し遂げました。しかし、彼は民への心を変えることが出来ませんでした。彼らは心を尽くして主に従うことを約束しましたが、彼らはそれらを達成することが出来ませんでした。(ネヘミヤ10:30と13:23、10:31と13:16、10:39と13:11を比較せよ)。人間の罪の問題は未だに残っていました。
ネヘミヤは彼らに警告しました(13:15,21)。ネヘミヤは彼らを非難しました(17,25)。ネヘミヤは彼らに純粋な者になって欲しかったのです(22,30)。しかし、それは無駄でした。ネヘミヤの欲求不満は私たちをイエスへと目を向けさせます。このお方だけが人間の心の問題を取り扱い、私たちの罪を取り扱うことが出来るの唯一のお方なのです。
何度も何度も、ネヘミヤは自分が神に忠実に仕えたことのゆえに、すべてのことを覚えてくださいと願いました(14,22,31)。しかし、究極的には、彼は神のあわれみと愛に信頼しました。「私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。(22)」
ネヘミヤは、私たち皆と同じように、神のあわれみと愛を受け取る者になることを必要とされました。その憐れみと愛は私たちの身代わりとなって死んでくださったイエスに最高にあらわされているのです。それはパウロがローマ人への手紙に記している通りです。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)」
祈り:主よ。新しい天と新しい地において、私があなたの偉大な愛を永遠に楽しむことができますことを感謝します。まさに今、私はイエスの死と復活を通して、あなたの愛を知ります。そして、私は聖霊によって私の心に注がれるあなたの愛を経験します。主イエスよ。私はあなたの御名をとこしえからとこしえまで賛美ます。アーメン。
H.K
References
Ed Dobson, 50 Remarkable Events Pointing to The End: Why Jesus Could Return by AD 2000 (Zondervan, 1997).