Tokyo Chapel

2019年9月20日

第263日

対立を取り扱う方法

「聖書は私たちの隣人を愛するように告げている。そして、私たちの敵を愛するようにも言っている。多分、それは通常、両者が同一の人々だからなのだろう。」とG.K.チェスタートンは記しました。

衝突は避けることが出来ないものです。私たちの中で面と向かうことを敬遠するような人であっても、避けえないのです。私たちが生きていると、やがて衝突しなければならない人々との出会いというものが必然的にあるのです。付け加えるなら、クリスチャンにとって、罪深い生れながらの性質の欲求と聖霊との間に内面的な葛藤があります。

教会と共に真理に根ざして立ち上がろうとする時、あるいは、世間で広く受け入れられている文化に関わる時に私たちは衝突を経験するかも知れません。伝統的に「キリスト教国」と見られているイギリスでさえ、文化的には、キリスト教信仰に敵対するような傾向が強まってきています。


私たちを憎み攻撃する人たちに対立する。

詩篇109:1-20

ダビデは神に向かって叫びました。「私の賛美する神よ。(1)」ダビデは「邪悪な口と、欺きの口を」向けて開き、「偽りの舌(2)」と「憎しみのことば(3)」を持つ者たちと対立していました。「彼らは、善にかえて悪を、 私の愛にかえて憎しみを、私に報いました。 (5)」私たちは愛する者や友だと思っていた者たちから攻撃を受けると深い心痛を受けます。彼らの非難や憎しみの言葉は深い痛みをもたらします。

この詩篇におけるダビデの反応は、彼の痛みや葛藤を神に持って行くことでした。それら全ての真っ只中で「私は祈るばかりです。(4)」とダビデは宣言しています。そして神に心を注ぎ出すのです。不確実な言葉遣いは無く、彼は神に要求し、沈黙に留まることなく、むしろ祈りで彼らに報復したのです。

ダビデが言った言葉のいくつかは読むことが難しいものがあります。それはただ、神の助けなしに赦すことが如何に難しいかを反映しています。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」というイエスの呼びかけとは調和しません。もしあなたが不公平な攻撃を受けたなら、神の前に祈りを満たすことと正直であることダビデから倣いましょう。それと同時に、苦々しさや憎しみに打ち勝つように神に助けを求めましょう。

祈り:主よ。私が対立に至った時、肉によって反応するのではなく、霊によって応答することができるように助けてください。


異論との対立そして私たちの心の中の対立

ガラテヤ5:7-26

対立と直面は簡単ではありませんが、それらは勇気あるリーダーシップを必要とするものです。パウロは「扇動者」と対立していることを自覚しました。パウロは真理について情熱的でした。そして、彼らについて非常に強い言語を用いました。なぜなら、彼らは教会を惑わそうとしていたからです。

要するに、もし、彼らが割礼によって男性の一部を切り取る外科手術に夢中になっているのなら、彼らも同じように「いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです。(12)」とパウロは言っているのです。むしろこのような言葉が新約聖書に見つけることが出来ることに驚くよりも、真理が重要であり、パウロは真理を守るために対立に面する準備をしていたのです。

パウロは罪深い性質と聖霊との間にある対立へと話題を移します。聖霊と罪深い性質は「互いに対立して(17)」いるのです。

パウロの議論の全体的なポイントは自由を強調しています。しかしながら、罪からの自由は、罪への自由を意味しません。

パウロは奴隷の二つの形態を対照します。律法主義(律法に対する奴隷状態)と放縦(自己に対する奴隷状態)。あなたはこれらから自由にされたのです。律法主義と放縦の両方を避けなさい。「あなたはこの自由をあなたがしたい放題に何でもすることの言い訳として用いないことをはっきりさせなさい。そして、自由を破壊しないようにしなさい。むしろ、あなたの自由を愛によって他者に仕えるために用いなさい。(13-14,MSG訳)」

それが本当の自由です。― 倫理を欠くことなく、愛によって他者に仕える自由です。あなた自身のようにあなたを愛すること(14)。もし、私たちがこの世がするように対立に答え続けるなら、「互いにかみ合ったり、食い合ったり(15)」して私たちはお互いの間で滅ぼされてしまいます(15)。

パウロはこの対立を制御する4つの領域の例を挙げています。

  1. 性的罪:「何度も繰り返す、愛のない、安っぽいセックス。悪臭を放つ精神的、感情的ごみの山。幸福をつかもうとする喜びのない熱狂(19,MSG訳)」
  2. 宗教的罪:「安物の神々。マジック・ショーの宗教。偏執性の孤独(20a,MSG訳)」
  3. 社会的罪:「食うか食われるかの激烈な競争。すべてを消費しても満たされることのない欲望。残忍な気性。愛することまたは愛されることの不能状態。分裂した家庭、分裂した生活。心の狭いいびつな追い求め。すべての人をライバルとみなす非人格的な敵意のある習慣(20b,MSG訳)」
  4. 過剰性の罪:「制御していない、そして制御できない依存症。共同体に対する醜いパロディー(21,MSG訳)」

これらの欲求を満足させようとしてはなりません。むしろ、「御霊によって導かれ(18)」生きなさい。もし、あなたが御霊によって生きることを選ぶなら、あなたは引き続き私たちを誘惑する肉の欲に従わなくなります。それに代えて、あなたは御霊の実を結ぶようになるのです。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(22-23)」です。私の友人であるミカエル・ティミスが私にこう書きました。「私が愛を定義づける方法は、御霊の実を用いることによります。それは愛から始まります。私は喜びは愛を喜ぶことであると信じます。平和は安らぐ愛です。寛容は待つ愛です。親切は相互の愛です。善意は愛の動機です。誠実は言葉を守る愛です。柔和は同情する愛です。そして自制は誘惑に抵抗する愛です。」

これらはイエスのうちに私たちが見る性格です。パウロは続けます。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(24)」誘惑はいつも引き戻そうとします。しかし「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(25)」

可能な限り、個人的な対立を避けましょう。「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。(26)」

今、聖霊はあなたの内に住んでおられます。あなたのすべての決定に聖霊に携わっていただきましょう。そして、聖霊があなたに促すことに従いましょう。もしあなたが、内面で落ち着かない感覚をもよおすような考え、話し、何かをしているなら、聖霊がストップするようにあなたに促しておられるのです。他方、あなたが決断し、平和の深い感覚を感じる時、聖霊と共に歩んでいるのだと知りなさい。

祈り:主よ。対立を知恵深く取り扱うことができるように助けてください。聖霊と歩調を合わせることが出来ますようにお助けください。


文化との対立

イザヤ47:1-49:7

今日、多くのことのように、神の民は自分たちが自分たちの基準とはかなり異なる文化の中にいることをしばしば発見します。あなたは文化からひきこもるように召されているのではありませんが、違った生き方をするように召されています。文化に妥協しない生き方を生き、この世界の文化を良くする力強いインパクトを与えるようになるのです。

神の民は「あわれみのない(47:6)」残酷な社会(バビロン)に自分たちがいることを見出しました。魔術や占星術「多く呪術・…呪文(9b,12-13)」などに耽る非常に高慢な文化(8-9)でした。

文化に真っ向から対抗する生活を生きることは大変難しいことです。預言者はですからイスラエルに告げました。もし、彼らがただ主と主の戒めだけに注意を向けるなら、「あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(48:18)」と。

すべてのイスラエルのしくじりと問題にもかかわらず、神はご自身のご計画と「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。(49:3)」という目的ををあきらめることをなさらないのです。私たちは他の「主のしもべ」(9月17日を参照)について読みました。今回は個人的で、「ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるため(5)」に備えられた人物です。神はもともとご自身のしもべイスラエルがご自身を啓示し成就するであろうということを目的としておられました。この矛先はイエスに向けられました。イエスはイスラエルに遣わされたイスラエル人です。彼は完全にご自身の国と同化しておられました。しかし、それとは区別される者でした。

しもべの最初の務めは、真理を宣言することでした。彼の口は「鋭い剣のよう(2)」でした。神は一つの国に語り、彼らに他のすべての人々に告げさせようとしました。しもべの第二の務めは、神が「の栄光を現す。(3)」ことでした。第三の務めは、世界への祝福となることでした。「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。(6)」

イザヤは、それで、私たちにしもべがどのようにこれを完遂したかを垣間見させているのです。イザヤ53章の予型において、「人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷(49:7)」について語ります。しもべは神の栄光を現わします(3)。今、神はしもべに栄光を授けます。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。(7)」

これは、当方の博士たちがイエスを拝みに来た時に成就しました(マタイ2:1-12)。それは過去二千年間にわたって、何度も何度も、王、皇帝、大統領、首相たちがイエスにひざまずき、ひれ伏すときに成就しました(7)。

イスラエルは成功しませんでしたが、イエスは成功しました。今、私たちの務めは、私たちが主のしもべになることです。パウロとバルナバはこの箇所を引用しました。「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。(イザヤ49:6、使徒13:47)」

祈り:主よ。私の周りの文化との関わりにおいて助けてください。愛を持って真理を語り、あなたの栄光を輝かせ、私たちの周りにいる人々にとって光となることができますように。

H.K

References

G. K. Chesterton, Illustrated London News, 16 July 1910