2019年3月11日
第70日
全き赦し
サンディー・ミラー主教は、彼が浜辺を歩いていた時、人々が歩くたびに柔らかい砂に足跡が無数に残っているのを見ました。翌朝、彼は、波によって足跡がすっかり消えてなくなっているのを見ました。その時、イエスが彼にこう言っているように感じました。「これが赦しだよ。」
イエス・キリストから受ける赦しは、私たちの人生にがれきのように残されたものが、すっかり拭い去られるようなものです。
赦しは決して簡単ではありません。私たちは皆、他の人々を赦すことがどれほど大変であるかを知っています。しかしながら、私たちはしばしば、神からの赦しがまるで自動的になされるものであるかのように考えてしまいます。ロシアの女帝、エカチェリーナ2世(1729-1796)は死の間際にこう言いました。「私は専制君主です。それが私の仕事です。良き主は私をお赦しになるでしょう。それが主の仕事です。」
今日の聖書箇所で、私たちは非常に高い犠牲と大いなる神の赦しの祝福を見ることができます。P.T.フォーサイスは次のように指し示しています。「最初に我々は罪人であることに絶望することを知らなければならない。すると我々は赦しの息をのむような不思議に感謝することができるのだ。」
赦しの解放を経験する
詩篇32:1-11
他の人を赦すのに困難を覚えたことがありますか?さらに過去にあなたがしてしまった出来事において自分自身を赦すことに困難を覚えたことがありますか?他の人やあなた自身を赦すことの鍵は、神がどれほどあなたを赦されたかを知ることです。赦された者は赦すことができるのです。
C.S.ルイスは「クリスチャンであるということの意味は、赦し難いものを赦すことです、なぜなら、神はあなたの内にある赦し難いものを赦したからです。」同様にあなた自身を赦すことにも言及しました。「神が我々を赦したのであれば、我々は自分自身を赦さねばならない。そうしないのであれば、それはあたかも自分が神より上に法廷を築くようなものだ。」と記しました。
イエスを通して、神はあなたにも私にも当てはまる全き赦しをもたらしました。この詩篇で、私たちは神の赦しが大きな変化をもたらすことがわかります。
- 裁きの手からの解放
ダビデは赦されないことの霊的苦悩を記しています。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。(3-4)」 - 神の前に正直になる
赦しへの道は、単純に仮面をつけずに神の前に進んでいくことです。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(5)」 - 新しい出発
ダビデは赦されたことを知るという莫大な祝福を記しています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。(1-2)」
私たちの日記がつけられていると想像してみてください。そこには私たちの約束や会合が記されているだけではなく、すべての罪が記されているのです。この詩篇の最初の2節は、神があなたの罪に対して何を為すのかという3つの絵が描かれています。第一は「神は私たちの罪を数えない(2)」ということです。神はそれが存在していないかのように振舞われます。
第二は「神は私たちの罪を覆う(1)」ということです。それはあたかも天の消しゴムであなたの日記の罪深い記事を消し去ってくれるようなものです。「あなたの石板はきれいに拭われた(1,MSG訳)」、第三は「私たちは赦された(1a)」ということです。ヘブル語では「赦された」という語は「取り除けられた」という意味です。罪は取り除けられたのです。「あなたは新鮮なスタートを得た。」(1,MSG訳)
使徒パウロは、あなたのためのイエスの死を通して、神が信仰による義を認めるということ、そして、善行を積むことで赦しを得ることはできないということの証拠としてこの詩篇を引用しています。(ローマ4:6-8参照)十字架を通して、神はあなたとの正しい関係を立て直されました。それゆえ、あなたは神に祈ることができます(詩篇32:6a)。神はあなたの「隠れ場(7a)」となられます。あなたを問題から守られます(7b)。神はあなたを導き(8)、尽きることのない愛があなたを取り囲みます(10)。
これは善行で手に入れることはできません。信仰によって神を信頼する者に与えられるのです(10)。旧約聖書の適切な理解は、赦しへの道は悔い改めと信仰であることを示しています。
赦しによって罪を犯してよいということにはなりません。それは罪を犯さない動機です。私たちは神の道にとどまりたいと願います。神は、ご自身があなたを導くと約束されました。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。(8)」
神はあなたに、馬や騾馬のように導くのが難しい存在になってほしくはないのです。それらは「くつわや手綱の馬具(9)」で御さなければなりません。神はあなたに聖霊に抵抗する痛みを避けて欲しいと願っておられます。神の霊の示しに従いましょう。神はあなたに毎日ご自身の御声を聴くことを願っておられます。主の教えを聞きましょう。主の道に歩みましょう。そして、神の愛に信頼しましょう。
祈り:主よ。あなたは私のために十字架で死んでくださいました。それゆえに、私は赦しの解放を知ることができました。私の人生の中で間違ったことをしたことをお詫びします。どうぞ、私を赦してください。
赦しの代価を払ってくださったイエスへの感謝
マルコ15:33-47
今日、あなたのためにイエスが死んでくださったことを感謝しましょう。イエスが私たちの赦しのために支払ってくださった代価は非常に大きなものでした。人を赦すことは難しい事ですがイエスはそれを可能にしてくださいました。
- イエスはあなたのために十字架にかかって死んでくださった。時々、本当はイエスは十字架で死んでおらず、冷たい墓の中で蘇生したのだという人がいます。しかしながら、ピラトが改めて調べさせた(44)ことからも、死んでいたことは確かです。百人隊長がそれを確認しているのです(45)。ローマの兵士は十字架刑を執行するエキスパートです。百人隊長がもし囚人を生かしておいたのならば、彼自身が大きな罰を負わなければならなかったのです。アリマタヤのヨセフは「イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた(46)」のです。ヨセフがイエスがまだ生きており、息をしていたのを知っていたとすれば、彼は生きているイエスを墓に納めたりはしなかったでしょう。
- イエスは私たちの罪の赦しを神に乞われた
「…全地が暗くなって、(33)」イエスは叫びました。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(34a)」マルコはイエスの言葉をアラム語のまま記しています。その意味は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか(34b)」です。先日の日々の糧でも見てきたように(日々の糧第46日[2月15日])、これは詩篇22篇からのことばであり、22篇は勝利のことばで締めくくられています。 - イエスは赦しの道を開き、神の臨在への戸口を開かれた。
今日の旧約聖書の箇所にあるように、至聖所と聖所の間の幕は神の臨在と民とを隔てていました(レビ24:3)。しかし、その垂れ幕が上から下に、つまり神の力によって真っ二つに引き裂かれたのです。それは高さ18メートル、厚みは最低でも2.5センチはありました。人間の手では届かない上から下にむけて裂かれたという事実は、それが神の手によってなされたことを強調しています。この象徴的な出来事はイエスの死を通して、あなたは神に近づいていくことが出来るようになったということ、なぜならあなたの罪が赦されたからであるということを示しています。神はあなたを義と認め、あなたも私も神との親密な関係に入るという大きな特権を許されたのです。
祈り:主イエス様。「あなたが私を愛して下さり、私のためにご自身を与えてくださった(ガラテヤ2:20)」ことを感謝します。今は、あなたのお名前によって。大胆に確信をもって神の臨在に入ることが出来ることを感謝します。
赦しは私たち「によって」ではなく、私たち「のため」であることを理解する
レビ23:1-24:23
私たちは旧約聖書の中で、どれほど罪が取り除けられることが深刻であるかがわかります。それはちっぽけなことではありません。赦しを当たり前のことだとは言えません。
正義は同等であることを要求します。「いのちにはいのちをもって(24:18)」「骨折には骨折。目には目。歯には歯。(20)」これは個人的な関係を対象にしたものではなく、法廷で復讐がエスカレートするのを防いだのです。
それは罪に対する罰則の妥当性の必要を示しています。(ついでながら、10-16節は冒涜に関する律法であり、イエスご自身はマルコ14:64で見た通り、死に至らされたのです。)
さて、私たちはイエスの死の予表を見ます。罪の赦しはいけにえを要求します。子羊が必要だったのです。子羊は傷のないものでなければなりませんでした。(レビ23:12)。聖パウロはイエスを「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。(1コリント5:7)」と記述しました。
赦しは働きで手に入れることは出来ません。贖罪の日には「主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。(23:28)」と記されています。英語ではby youではなくfor you であり、あなたがた「により」ではなくあなたがたの「ための」贖いという意味です。これは聖書全体の中でも過激で革命的な教えです。あなたが、イエスを通して赦されることが可能となったことを理解する時、あなたは息もつかせぬほどにあなたの人生に変革をもたらすでしょう。そして、あなたが、神から総体的な赦しを受け取ったことを知った時、あなたは他者を赦し、あなた自身を赦さなければならないのです。
祈り:主イエス様。あなたが旧約聖書の律法から私たちを自由にしてくださったことを感謝します。あなたが「神の小羊」となってくださったことを感謝します。あなたは世の罪を取り除いてくださいました(ヨハネ1:29)。あなたは私を贖ってくださいました。息を吞むようなあなたの驚くべき赦しを感謝します。わたしの人生を永遠に変革してくださったのですから。アーメン。
H.K
References
C. S. Lewis, The Weight of Glory, (New York: Harper Collins, 2001; Originally published 1949) p.158
C.S. Lewis, Collected Letters of C.S. Lewis, (Zondervan, 2007) p.1591
P.T. Forsyth (1848–1921)