Tokyo Chapel

2019年2月10日

第41日

人生を変える言葉

私の父は死ぬ前にロシアに行きたがっていました。それで、彼らは家族で休日を利用してロシアの向かいました。その当時、聖書は厳格に持ち込みが制限されていました。私は何冊かのロシア語の聖書を持って行きました。滞在中、私は教会に行き、本物のクリスチャンだと思える人を探しました。(教会の集会にはしばしばKGBが紛れ込んでいたのです。)

チャンスを見つけ、私は礼拝後に一人の男性の後を追いました。男性に追いつき、私は彼の方をポンとたたきました。誰もいないことを確かめ、聖書を一冊取り出し男性に手渡したのです。その瞬間、男性は非常に疑い深い表情をしました。それから、ポケットからたぶん100年は経っていると思われる新約聖書を取り出したのです。ぺージがところどころ破けて透けている部分もありました。男性は自分が完全な聖書を受け取ったのだと認識したとき、舞い上がるように喜びました。男性は英語を話すことは出来ませんでした。私はロシア語を話せませんでした。しかし、二人とも、お互いに抱き合い、通りの真ん中で飛んだり跳ねたり喜びを爆発させたのです。

男性は今日の詩篇のダビデのようでした。神のことばは「金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。(詩篇19:10)」

神の言葉はどうしてそれほど貴重なのでしょうか?イエスは言います。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ4:4)」この「ことば」の自制は現在形です。それは「神の口から出続けることば」という意味です。それはまるで泉から湧き上がってせせらぎとなる流れのようです。それは静止してはいません。神はご自身の民とコミュニケーションし続けるのです。神はそれですから、第一に聖書という人生を変えることばを語り続けているのです。


神の言葉はあなたを変える

詩篇19:7-14

私たちは皆、いろいろな局面で神のことばが持つ変革する力が必要です。ストレスに満ちた、あるいは複雑な状況で知恵を求める時、がっかりして励ましを必要とする時、前に進むために導きを求める時、あなたは聖書の中から助けを見出すことが出来るのです。

ダビデは私たちのように手元に聖書をもってはいませんでした。しかし、ダビデは「主のみおしえ(7a)」「主のあかし(7b)」「主のいましめ(8a)」「主の仰せ(8b)」を常に携えていました。

ダビデはこれらを「完全で(7a)」「きよく(9a)」「好ましい(10)」と言います。

この詩篇の中に、私たちはいくつかの聖書を読むことによる人生を変える効力を見ます。

  1. たましいを生き返らせ(7a)
  2. 賢くする(7b)
  3. 心を喜ばせ(8a)
  4. 目を明るくする(8b)
  5. 戒め(11a)
  6. 報いは大きい(11b)

聖書を読むことと祈ることはとても密接に関わっています。聖書はただ読んで知識を蓄えるためだけのものではなく、神の語りかけを聴くことです。その自然な応答が祈りです。それは双方向のプロセスです。この「日々の糧 (Bible in One Year)」のそれぞれの解説の項目ごとに祈りのことばが記されているのはそのためです。神の言葉を通してご自身を表される神への応答として祈るのです。ダビデは神の言葉の徳を称賛することからまっすぐに素晴らしい祈りへと入っていきます。ダビデの祈りは私の祈りです(12-14)。

祈り:主よ。「どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。…私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」


神の言葉はあなたを導く

マタイ26:47-68

明らかに、イエスはみことばをしっかりと学んでおられました。イエスの生涯はお読みになったみことばによって形造られていました。それゆえに、捕えられた時も、イエスはすでに読んでおられたみことばによって状況を理解しておられたのです。イエスの側近たちは抵抗しようとしましたが、イエスは言いました。「…こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。(54)」イエスは群衆に「…すべてこうなったのは、預言者たちの書実現するためです。(56)」と説明しました。

イエスが裏切られ、見捨てられ、偽りの訴えに遭うことはみことばの成就であったのです。イエスの例は同じ状況に私たちが置かれたときにどうすれば良いかを示しています。

  1. 裏切り
    ユダは親愛の行為である口づけを合図に用いて裏切りました「裏切者は…親しみと献身をもって[ふりをして]彼を抱擁し口づけした(48-49,AMP訳)。」それは究極の二心ある行動です。

    イエスは正確にユダがしたことを知っていました。それでもなお、イエスは彼を「友」と呼びました。たとえ私たちが不忠実であっても、イエスは私たちに誠実であられるのです。
  2. 見捨てられる
    イエスの友はみな、イエスを「見捨てて、逃げてしまいました(56b)」大勝利を得た瞬間、たとえば、婚約、出産、合格の時に、誰か周りにいる人と喜びを分かち合いたいと思うことは自然です。しかし、忠誠とは、その人がダウンしているときに支えることを意味します。なんと言えばいいのかわからず、そこに居づらくなり、その結果、見捨ててしまうのです。

    「あなたの人生が上げ潮の時、あなたの友はあなたが誰かを知る。あなたの人生が下げ潮の時、あなたは誰があなたの友であるかを知る。」という格言の通りです。
  3. 偽りの訴え
    あなたは今まで偽りの訴えを受けたことがありますか?それはひどい体験です。イエスは偽の証言によってひどい理不尽に直面し、殺されようとしていました。(59)

    イエスは非常に自制しました。言い返すこともなく(63)、痛めつけられることを許しました(67)。そして、議論において論破することを選ばず、しかし、むしろ戦いに勝つことを選びました。(これはアルファのスモールグループでホストが学ぶべきことです!)イエスは、究極的に偉大な勝利を勝ち取るという、聖書の言葉に記された目的とそのように導かれることを知っていたのです。

イエスがご自身が何者であるかを、そしてご自身の使命をはっきりと理解していたのは、イエスが神の言葉を読んでいたからです。議会の前に引き出された時、イエスは孤立無援の犠牲者のようでした。しかし実は、宮を新しく建て(61)、救い主であり(63)、神の子であり(63)、神の右の手に座しておられる人の子(64)であることを過激にも顕しておられたのです。現実には、孤立無援の犠牲者はすべての権威と権力を持つお方だったのです。

ダニエル書7章13節からの引用である「人の子」であるという言及をイエスはご自身についてのメシアとしての約束であることを理解していました。そこには苦難と擁護と神の与えた権威が指し示されていました。

皮肉なことに、裁判でこのお方を裁いた者たちのように、私たちは皆、イエスが何者であるかを決めなければならないのです。(マタイ26:66)

祈り:主よ。イエスが聖書を学んだように、私たちも倣うことができますように。そして、みことばを私の生活の中に適用することができますように。


神の言葉に従う

出エジプト6:13-8:32

モーセとアロンは神のことばを聞き、神が彼らにするように命じたことばを正確に行いました(7:6)。彼らは神のことばに従いました。一方、それとは対照的に、パロはみことばをことごとく退けました。パロは神のことばをかたくなに拒んだのです。

歴史においてこの時代には、モーセはまだ書かれた言葉として神のことばを持ってはいませんでした。しかし、主はモーセに語られました。モーセは何度も何度も神の声を聴きました。(6:13,7:1,14,19,8:5,16,20,など)そして神の命じられた通りに行ったのです。神のことばの中心は「わたしの民がわたしを礼拝するために、彼らを行かせる」ことです。(例えば、7:16,8:1,9:1,13,10:3)

パロが呼び集めた呪法師たちが、モーセがしたことを「彼らの秘術を使って、同じことをした(7:11)」ということに驚く必要はありません(7:22,8:7)。悪魔は模倣する者です。悪魔はそれを破壊する業として使うことが出来ますし、時には一見建設的な業に見せかけて使うこともあります。しかし、悪魔の仕業はいつも騙すことです。

今日、神はしばしば、聖霊の賜物を通して働かれます。それは、預言、癒し、異言、知識の言葉などです。実は悪魔もそれらの賜物を模倣してそそのかします。テレパシー、霊的な「ヒーリング」、あるいは異言さえも使います。これは聖霊の賜物を避けるべきだと言っているのではありません。むしろ、それらを見分けなければならないということです。

私たちは実を見なければなりません。「エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。(7:22)」呪法師たちがしたことは中立的ではありません。パロの心をかたくなにし、神に歯向かわせるという悪い結果をもたらしたのです。

この箇所から、パロは神に益々反逆するものになったことは明らかです。「強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。(8:15,32)」それと同時に、彼は自分が蒔いたものを刈り取っています。神はパロの心をかたくなにしました(7:3)。この二つは相互で補い合います。神はパロをかたくなにし、パロは自分自身でかたくなになったのです。

この箇所で、私たちは神が人々に与える機会がどれほどたくさんあるかという例を見ます。モーセを通して、神は何度もパロに語りました。パロは有り余るほど、神に応答する機会があったのです。しかし、究極的に、パロは神を拒絶しました。一方、モーセは神と非常に近しい関係をもって歩みました。頻繁に祈り(8:12,30)、神のことばを聞いたのです。

祈り:主よ。あなたの言葉を聞き、従うことができる開かれた柔らかい心を与えてください。みことばに従うなら、大きな報いが用意されていることを感謝します。今日、どうか聞くだけではなく、あなたの人生を変える言葉を実践することが出来ますように。アーメン。

H.K