Tokyo Chapel

2019年9月19日

第262日

あなたの過去に囚われることを拒む

彼が法律家や警官になるのを助けてくれる者は一人もいませんでした。彼は軍隊にも関心はありませんでした。彼は医者になりたくもありませんでした。それですから、その当時、男性が就く分かりやすい専門的職業は英国国教会の聖職者になることでした。

彼は内面的にも外面的に、すべての法を守ることによって神に受け入れられる者になろうとしました。彼は朝早く起き、祈り、自己否定しました。彼は赦しと平安を努力を増し加えて勝ち取ろうとしたのです。しかし、彼は「重いくびきにうめき」ました。

1738年5月24日、午後8時45分。彼は誰かが偉大な宗教改革者マルチン・ルターの本を読むのを聞きました。彼はのちに回想しています。「キリストにある信仰を通して、神が心の内に働くという変化を彼が説明している間、私は心の中が不思議と温かくなるのを感じた。私はキリストを信頼していたのだと感じた。キリストだけが救いなのだ。キリストが私の罪を取り去ってくださった。私の罪さえ。そして私を罪と死の律法から救ってくださったのだということが私にとって確かになった。」

ジョン・ウェスレーは、イエス・キリストにある信仰を通しての自由を4万回以上説教する偉大な説教者となりました。「奴隷の信仰から息子の信仰に交換した」と彼が言ったように、彼は得たのです。彼はついに自由になりました。

「自由」はクリスチャン生活を一言で言い表す最も適した言葉です。あなたもまた、自由です。ですから、あなたの過去によって囚われることを拒みましょう。


自由を叫び求める

詩篇108:6-13

ダビデは神が自分を愛していることを知っていました。そして、彼は神に自分を救い助けてくださるように祈りました。「あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。(6)」救われるということは自由にされるということです。

もし、あなたがあなたの生活の中で困難な試練に直面しているなら、ダビデのように祈りましょう。
「困難な務めのために助けを与えてください。
人間の助けは価値がありません。
神にあって、私たちは自分の最高を成しえるのです。(12-13,MSG訳)」

祈り:主よ。あなたが私を愛してくださってありがとうございます。私を助け、私を自由にしてください。
主よ。今日、私はあなたの助けを求めて祈ります…。


自由な人生を生きる

ガラテヤ4:21-5:6

私たちの文化では、自由はしばしば、自分のしたいことがどんなことでも、どんな時にも何でもできる状態であることとして理解されます。しかし、あなたがそのように生きてみても、あなたは必ずしも本当の自由を感じません。

今日の箇所のパウロの教えに従えば、自由はイエス・キリストを通してくるのです。イエスのメッセージは、あなたは「うまれながらに自由」なのではなく、あなたは自由になるために「新しく生まれ」なければならないということなのです。本当の自由はキリストにある信仰の生活のうちに見出されるものなのです。

多くの自由の思想はうまくいきません。なぜなら、それらは私たちが囚われてしまうという本当の性質を認識しないからです。ある特定の民族の生まれながら持つ権利として自由を信じることは、しばしば極めて有害なナショナリズムや民族主義を生み出します。それは近年ではナチズムやアパルトヘイトのような実に深刻な悪を生み出したのです。

自由を叫ぶ(Cry Freedom)」という映画の題名は私たちが皆、切望している何かを表現しています。(この映画が表現している)民族的、政治的自由や言論の自由、結社の自由、礼拝の自由、思想の自由、経済の自由、個人の自由…世界中が自由を叫んでいます。

このような形態の自由はどれも大切です。しかし、あなたがそれらすべてを得たとしても依然として囚われているのです。それに対して、あなたがそれらを一つも得られない状況にあっても尚、自由であることが出来ます。福音はその中に違った形態の自由の約束を内包しています。しかし、それは他のどんなものよりも心の奥底からの自由と共に始まるのです。

「キリストは自由な人生を生きるために私たちを自由にしました。(5:1,MSG訳)」イエスは、聖霊を通して、自由、信仰、愛の人生を生きる自由を与えてくださいました。パウロの反対者たち「ユダヤ教化する者(Judaiser)」は自分たちがアブラハムの子孫であるという事実を誇っていました。パウロは旧約聖書を比喩的に解釈し、彼らと対抗するために寓話的な議論を用いました。

パウロは、反対者たちに、私たちが生きることができる2つの道があると言いました。その2つの道とは束縛か自由かです。パウロは二つの契約があることを説明します。あなたがたはアブラハムの子孫であることを誇っています。― しかし、アブラハムには実際は二人の子どもがいました。― ひとりは束縛でひとりは自由です。アブラハムの本当の子孫は肉的ではなく、霊的です。アブラハムがあなたがたの父であるということだけでは不十分です。大切な質問は「誰があなたの母親ですか?」です。

パウロは反対者たちの律法に基づく主張によって、彼らが本当はハガルの子どもたちであると論じているのです。この類比は、古い契約、今のエルサレム、イシマエル、肉によって生まれた者、奴隷となる子(25)などで表されています。これはジョン・ウェスレーが彼の回心の前に経験していた人生です。それは、挫折と失敗、混乱と敗北の人生です。

クリスチャンであることは、その一方で、アブラハムの子孫であるだけでなく、サラの子でもあるということです。サラは新しい契約、新しいエルサレム(上にあるエルサレム,26)、イサク(約束の子ども,28)などで表され、そしてそれはキリストにある自由なのです。これは、ウェスレーがキリストを、そしてキリストただ一人が救いに必要なのだということを信頼した日に体験したものです。ウェスレーの心は「不思議に温かくなった」のです。これが平安、喜び、自由の道です。

パウロはイシマエルはイサクをからかった(創世記21:9参照)ことを指摘しました。「あなたがたはイサクのように約束の子どもです。(ガラテヤ4:29)」とされるガラテヤの人々は、自分たちが「ユダヤ教化する者」によって責められていたことに驚くべきではないのです。

「こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。(31)」という言葉をもってパウロはこの箇所での議論を結論付けました。彼は続けて「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(5:1)」と言います。この描きは牛の背にかけられる重い装具です。

「割礼」は律法の宗教のために用いられた神学的な象徴でした(2-3)。パウロは割礼がキリストを損なうものであるということを付け加えて論じます。 働きによって義と認められようと追い求めることは、恵みから落ちてしまうことです(4)。

クリスチャン生活とは信仰を生きることです。あなたは自分の救いのために働くことは出来ません。あなたはただそれを待ち望むのです(5)。するとその間に体験するのです。「肝心なただ一つのことは愛を通してそれそのものに表される信仰です(6b,MSG訳)」

祈り:主よ。私が自由な人生を生きることができるように、私を解き放ってくださったことを感謝します。聖霊が私の人生にもたらされた自由のゆえに感謝します。今日、愛の内に私の信仰を表すことができるように助けてください。


自由の良き知らせを告げる

イザヤ44:24-46:13

神の愛は、宿った瞬間からすべての人、すべての国に広がります。イスラエルを選んだ神のもともとの計画の内には、彼らがすべての民に祝福を取り運ぶことがありました(創世記12:3)。

神は天と地の創造者です。神はあなたを造ってくださったお方です。他にはありません。イザヤ書はこれを何度も何度も繰り返し強調しています。この箇所では10回「他に誰もいない」と言っています。

神はあなたを造られました。神は「あなたを母の胎内にいる時から形造った(イザヤ44:24)」のです。神の愛は生まれる前、受胎し胎内にいる時にまで広がります。これは堕胎や胎児をどう扱うべきかについての議論に深い含蓄を与えます。すべての人は受胎した瞬間から神によって創られ、維持されているのです。「わたしは(あなたを)胎内にいる時から支えた(46:3b)。」

神の愛は、同じようにイスラエルからすべての国々に広げられました。神は万物の創造者ですから、神はすべての国々を救いと自由に加わるように招いておられるのです。「だからわたしに立ち返れ。そして助けを求め、救われよ!あなたが何者でも、どこに居る者でも、すべての者よ。(45:22a,MSG訳)」これはどのような世界も提供することが出来ないほど偉大な自由を約束するのです。

ここで、私たちはイエスの前に全世界がひれ伏すことを垣間見ます。「すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(23b)」パウロはこの節をイエスへの言及として参照しました(ピリピ2:9以降)。

これもまた、神が「異邦人」と呼ばれる、すなわち非ユダヤ人を用いられるであろうという事実の前味でした。クロスはペルシャ人でしたが、ここでは主に油注がれた者として描かれています(イザヤ45:1)。イザヤは預言して「わたしは勝利のうちに彼(クロス)を奮い立たせ、彼の道をみな、平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。(13)」この預言はクロス王の手によってバビロン捕囚に終止符が打たれた時に成就しました。

これは神の計画でした。神は言われました。「『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。わたしは、東から猛禽を、遠い地から、わたしのはかりごとを行う者を呼ぶ。わたしが語ると、すぐそれを行い、わたしが計ると、すぐそれをする。(46:10b-11)」あなたは、あなたのための神の計画をどんなものも妨害することは出来ないと確信することができます。

祈り:主よ。胎に宿った瞬間から、あなたは人種や背景によらずすべての人々を愛しておられることを感謝します。イエスが私たちを自由にし、やがて、すべての膝がかがめられ、すべての口がイエス・キリストは主であると告白することを感謝します。アーメン。

H.K