神のサイズの祈りを祈れ
私はクレイグという名の赤ちゃんのために祈ったことをよく覚えています。ブロンプトン病院に一人の女性を訪問してほしいと依頼を受けました。その女性ビビアンは3人の子どもがおり、4人目を身ごもっていました。3番目の子どもは生後8カ月で、ダウン症と診断されていました。また、心臓に穴が開いていて手術を受けたばかりでした。手術は成功とはいえず、不自然なこととは言えませんが、医療チームは装置の電源を切りたいと思っていました。彼らは何度も、装置の電源を切ってはどうかとビビアンに尋ねました。彼女は、最後の最後まで可能性を信じて「いいえ」と答えました。彼女は誰かに息子のために祈ってもらいたかったのです。そして、私が行ったのです。
クレイグにはたくさんのチューブが取り付けられ、その体は傷だらけでむくんでいました。彼女の話によると、クレイグの心臓は長時間止まっていたため、もし回復しても脳に甚大な損傷が残る可能性が高いと医師は告げたとのことでした。彼女は神を信じてはいませんでしたが、「祈って下さいますか?」と尋ねました。
私はイエスの名によって、神がクレイグをいやしてくださるように祈りました。それから、彼女にどのようにしてイエスに自分の生涯を委ねることができるかを説明して、彼女はそうしました。私は帰宅して、二日後にもう一度訪れると、ビビアンは私を見つけるなり駆け寄って来て、「あなたに話がしたかったんです。何か驚くべきことが起こったの。あなたがお祈りしてくださってから、彼の容態は劇的に変化して、良くなったの。」と言いました。そして、数日後にクレイグは退院していきました。
ビビアンは親戚や友達に皆のところに行って「私は神を信じてはいなかったけれど、今は信じている」と告げて回りました。
それは29年前の出来事です。私は今もその家族と交流を保っています。クレイグのダウン症は今も同じですが、容態は落ち着いており、家族と一緒に暮らしています。彼の癒しは自己暗示のようなものではありません。彼はその時、赤ちゃんだったのです。それは積極思考というようなものでもありません。プラシーボ効果などでもありません。それは神のサイズの祈りに、神のサイズの答えがもたらされたということなのです。
あわれみを求めて祈る
詩篇57:1-6
あなたは神にあわれみを求めて叫び求めたことがあるでしょうか?私は何度もあります。ダビデは「いと高き方、神に呼ばわり(2)」、「神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。(1a)」と祈りました。
かならず神が答えてくださる、神のサイズにかなうあわれみを求める祈りがあります。それはイエスを通して救いを求める祈りです。イエスは十字架の死を通して、それを可能にしました。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:13)
このあわれみを求めるダビデの祈りは、多分、ダビデがサウルから逃れて、洞窟の中にいた時のことでしょう(1サムエル22:24)。ダビデは神に叫び求め、神は彼の祈りを聞き、答えられました。ダビデは言いました。「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。(詩篇57:2)」
ダビデは、神が彼の人生に目的をお持ちであることと、神はその目的を成就してくださるということを知っていました。神はあなたの人生に神のサイズの目的を持っておられます。ダビデのように、神の召しに応答し、神に従いましょう。
神のサイズの祈りに対して神のサイズの方法で、神はお答えになります。「神は、天からの送りで、私を救われます。 神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。神は恵みとまことを送られるのです。(3)」
祈り:おお。神よ。あなたの恵みとまこと(3)に感謝します。あなたの御翼の陰を私の魂は避け所といたします。
癒しのために祈る
ヨハネ4:43-5:15
人生には神に癒して欲しくてたまらない時があります。それは誰かのためであるかもしれませんし、私たち自身のためかもしれません。癒しのための祈りは必ずしも叶えられるわけではありません。癒しの祈りが叶えられるかどうかがわからないということはとても辛いことです(※)。しかし、神は奇跡的な癒しをもたらしてくださることがあります。私たちはここで、奇跡による癒しの二つの例を見ます。どちらも神のサイズの祈りが鍵でした。
- 他者のための祈り
王室の役人は病気の息子のためにイエスに癒しを願い出ました(4:47)。息子は死にかかっていました。「イエスは『あなた方は目もくらむような奇跡が起こらなければ、信じることを拒否する。』と彼の気をくじきました。(48,MSG訳)」しかし役人は気をくじかれることなく「来てください!私の息子は生きるか死ぬかなんです。(49,MSG訳)」と答えました。イエスは役人の信仰に応えました。この役人はもしイエスが来て下さったら息子は癒されるかもしれないと信じていました。イエスはさらに一歩進んだことを彼に求めました。それは、何マイルも離れたところからの主の言葉によって彼の息子が癒されることでした。役人は信じました。そして、イエスは奇跡を成されたのです。イエスは役人の神のサイズの祈りに聴き、神のサイズの御業をなされたのです。その結果、家族全員が信じたのです(53)。 - 私たち自身のための祈り
イエスは大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた所に行きました(5:3)。当時、病は神の罰だと思われていました。それゆえ、これらの人々は人目を避けていたのです。しかし、神はこの世では弱く愚かと思われている人々を選んでくださいます(1コリ2:27-28)。イエスは三十八年もの間、病気にかかっている人をいやされました(ヨハネ5:5)。この男はことごとく希望を失っていたのです。彼はベテスダの池の癒しの力に希望を置いていました。池は周期的に泡立ち、最初に水に入った人が癒されると信じられていました。しかし、この男には助けてくれる者がおらず、最初に入ることが出来ませんでした(7)。彼には世話をしてくれる家族も友人もなく孤独でした。誰も愛してくれる人がありませんでした。しかし、イエスは彼を愛しました。イエスは、私たち一人ひとりにも言われるように、彼に「よくなりたいか。」と言われたのです。イエスの問いは三十八年間一人っきりで生きることを学んできた彼に、新しい友、新しい務め、自分の人生に新しい責任を得て生きることを選択するか?というチャレンジが込められています。
ジョイス・マイヤーはこの出来事を、要するにイエスはこのように言ったのだと記しました。「ただ寝転がっているだけではだめだ。何かしなさい!」ジョイス・マイヤーは続けてこう記します。「私は、ほぼ15年間にわたる性的虐待を受けながら、機能欠損家庭に信用することが出来ないまま恥ずかしさに満たされて育ったのです。私は人生に何かいいことが起こってほしかったのですが、感情的苦悩と絶望に打ちひしがれていたのです。
ヨハネ5章の男のように、イエスは私にもあわれみを与えませんでした。イエスは実際、とても厳しく私を取り扱われました。イエスはたくさんの過酷な愛を適用なさいました。しかし、主の断りは私が事故憐憫の泥沼から引き上げたのです。私はもうそのような落とし穴にはいません。私は今、大いなる人生を持っています。もし、あなたが自己憐憫を捨て去り、積極的に神を見て、神があなたに教えてくださることをすれば、あなたもまた、大いなる人生を持つことが出来るようになるのです。」
祈り:主よ。感謝します。あなたは私が他者のため、また自分自身のために癒しのための祈りをするときに、答えてくださることを感謝します。今日、癒しを求めてあなたに叫び求めます。
(※)私の親友であるピート・グレイグの「God on Mute」は素晴らしい本です。
リーダーシップのために祈る
士師記4:1-5:31
リーダーシップのアップダウンは世の常です。もし、ビジネスが上手く導かれれば業績は上がり、もし教会が上手く導かれれば通常は実り豊かになり、もし国が上手く導かれれば多くの場合は繁栄します。
将軍シセラは、二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に助けを叫び求めました(4:3)。シセラの帰りを待ちわびていた母の「彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。めいめいひとりの勇士にひとりかふたりの娘を。(5:30)」という言葉に、彼が神の民をそれまでどのように扱ってきたかがうかがえます。
神のサイズにあった民の叫びに応えて、神は偉大なリーダーである女預言者デボラを立てました。彼女は霊的リーダー(女預言者)であり政治的リーダーでもありました(4:4)。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。(8)」というバラクの言葉に彼女の存在感が伝わってきます。
興味深いことに、もう一人の女性ヤエルはシセラを最期に追い込む大役を果たしました(21)。
性別は問題ではありません。誰もが神に用いられるリーダーとなることができるのです。性別が問題ではありません。リーダーが積極的に導くかどうかです。「民が進んで身をささげるとき、主をほめたたえよ。(5:2,9)」
デボラとバラクは神に栄光を帰しました(1-5)。再びジョイス・マイヤーが指摘しています。「神は、自分たちが成し遂げたすべてを、自分にではなく神に栄光をお返しすることに専心する者たちを用いるために選びます。あなたが自分の人生で成功を収めた時はいつも。神に栄光を帰するように心しなさい。」
ご自身のための祈りに応えてくださる神の方法は、知恵深い、謙虚なリーダーシップを起こさせることです。その結果。「この国は四十年の間、穏やかであった。(31c)」
するように、デボラは、主を愛する者たちが「力強く日がさし出るようにしてください。(31b)」と祈りました。…温かさとエネルギーを取り運んで。恐れなく、力強く、大胆に。
祈り:主よ。私は今日、「力強く日がさし出るようにしてください。(31b)」と祈ります。暗闇の世界に私を輝かせてください。人々に道を示すことが出来ますように。
H.K
References
Joyce Meyer, The Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) pp.380, 1685