神を祝う時を持つ
「天国を垣間見た」これは、27歳の女性がFOCUSという教会の夏のリトリートに参加した時の感想です。彼女は海外旅行に出かけてFOCUSに参加できなかった年のことをこう記しています。「毎日、FOCUSに行きたかったということばかり考えていた。」
それは全会衆がともに集い、礼拝と感謝と賛美をもって祝うフェスティバルの時です。私たちは毎回のように聖霊の大いなる注ぎを体験します。毎日の生活をどのように生きればよいのか、聖書からビジョンを描くことのできる実際的な教えを聞くことを通して、霊的な成長がもたらされます。それは1週間にわたる笑いと楽しみにあふれるときです。遊び、ピクニックに出かけ、歌い、踊るのです。大いなる休日を過ごすと同時に新しい友を得る機会でもあります。それはまさに「天国を垣間見る」時なのです。
人生において、神を祝うことはとても重要な時なのです。
良き神を祝う
詩篇66:1-12
あなたは今まで、地獄を見た思いをしたことがありますか?あなたは自分が限界に挑戦しているのではと思ったことはありますか?それは、火を通して銀を製錬するように、神があなたを訓練してくださっているときなのかもしれません。
神はご自身の民をとても困難な時に導かれることがあります。
「主は第一に私たちを訓練されました。
銀のように製錬のために火の中を通され、
限界まで私たちを追いやり、
徹底的に路上試験を行い、
地獄に追いやりそこから引き戻します。
最終的に私たちは導かれます。
この「十分に潤った場所」へと。(10-12,MSG訳)
神を祝いなさい。次のような光景を無視してはなりません。実に騒々しい祝いの風景があります。「さあ、みんな集まった。神をほめたたえよう!(1,MSG訳)」彼らは賛美の歌を歌いました。「あなたのなさったことはなんと偉大なことでしょうか!あなたの力は本当にすごい。(3)」彼らは神が為されたことを祝いました(5)。周りにいる者すべてに聞こえるように、神を喜び賛美しました。「私たちの神を祝え。さあ人々よ!轟わたるように神を迎えよ!(8,MSG訳)
祈り:主よ。あなたがよいお方であることを祝います。あなたが私を豊かな場所へと導くために火や水の中をくぐらせることを感謝します。
イエスを祝う
ヨハネ12:37-13:17
物事がうまくいく時があるでしょう。物事がうまくいかない時もあるでしょう。しかし、あなたがいつもできる一つのことがあります。それは神を祝うことです。イエスは私たちのために死によみがえられました。イエスは言いました。「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。(12:47)」イエスは「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。(46)」と言われました。
イエスが弟子たちの足を洗った状況は過越の祭の食事の直前でした(13:1)。過越を祝おうとエルサレムに何千、何百もの人々が押し寄せ、大いなる興奮に包まれていたことでしょう。この祝いの時は、今日のイースターを私たちが祝うのと同様に、イエスの死と復活の予型です。
イエスが弟子たちの足を洗い終えたときに、イエスは彼らに言いました。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。(12)」一体何を訊ねたのでしょうか?彼らが理解したことは何だったのでしょうか?そこには4つの意味が読み取れます。
- 愛
弟子たちの足をイエスが洗われたという行為に「その愛を残るところなく示された(13:1)」のだとわかります。これは世間で人々が使う「愛」という言葉とは非常に対照的なインパクトがあります。それは感覚や感情以上のものです。愛とはイエスが彼らを取り扱おうとしたように人々を取り扱うことを決心することです(14-15)。 - 奉仕
当時のパレスチナの道路は舗装されていない埃っぽい道でした。乾燥した日には、足は砂埃にすっぽりと埋まってしまいます。また、雨が降ると、今度はぬかるみに浸かってしまいます。裕福な家では、玄関先に器が用意してありました。二番目に地位の低いしもべがサンダルのひもを解き、一番地位の低いしもべが足を洗いました。
皆が寝そべっている間に、イエスは立ち上がり、羽織っていた上着を脱ぎ、ふんどし一丁のしもべの姿になり、イエスは彼らの足を洗い始めたのです。
イエスは社会の最下層の人々がする仕事を引き受けて、ご自身を奴隷のように置かれたのです。それは人々が卑しい仕事と思っていた仕事だったのです。これは、この世のリーダーシップのモデルとうは正反対のことだったのです。彼らの「主であり師である(14)」お方であるイエスが自ら、社会で一番小さい者であること、卑しい仕事をする者であること、社会の隅に追いやられている者であることをお見せになったのです。
イエスは、もしあなたが人々を愛するなら、あなたは彼らに仕え、あなたに仕える者に対して最高の敬意を払って常に取り扱うべきであることを私たちに見せておられます。
- 謙遜
イエスは絶対的な愛(1)と絶対的な力を独特に組み合わせました。「父が万物を自分の手に渡された(3a)」。愛のうちに、イエスは謙遜を行動することを選択し、ご自身の弟子たちに仕えたのです。ユダのように(2)、自分自身の栄光を求める者たちは何もかも失くしてしまいます。自らを高めようとする者たちは低くせられ、自分自身を低くする者を、神は高めてくださるのです。
イエスは愛、奉仕、謙遜を通して権威を行使する新しい方法を示されました。この劇的な方法の内に、イエスは指導する者と指導される者との間の隙間に橋を架けられたのです。
- 赦し
洗うことは赦し、すなわち罪からのきよめの象徴です。足を洗うことは、イエスが彼らのために十字架で成してくださったことを表しています(7)。あなたのためにイエスが死なれたことを通して、あなたは完全に赦されたのです。それでは、なぜ日常的に赦しのために祈ることをイエスは教えているのでしょうか?ここにそのことを知る最もわかりやすい手掛かりがあります。イエスがペテロの足を洗おうとしたとき、ペテロは言いました。「決して私の足をお洗いにならないでください。」するとイエスは答えられました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(8)ペテロは返答して「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」というと、イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」と言われました(10)。
これは、赦しの描きです。あなたがイエスに信仰を置くとき、あなたは完全にきよめられ、あなたは赦されました。すべてのことは処理されたのです。あなたは完全な赦しを戴くための悔い改めと信仰の祈りは一度だけで、繰り返す必要はありません。そのことが、水浴にあらわされています。
しかしながら、私たちは、この世の中を生活している中で、神との親しい関係を曇らせてしまうようなことをしてしまいます。あなたの神との関係はいつも守られているのですが、あなたの足を泥の中に乗せてしまい、友情関係を汚してしまうのです。ですから毎日こう祈るのです。「主よ。私を赦してください。泥からきよめてください」と。あなたはもう一度水浴する必要はありません。イエスはあなたのためにすでに為してくださいました。しかし、一定のきよめは毎日必要なのです。
私たちのイースターのお祝いに加えて、毎週、私たちが復活された日(日曜日)にともに集まるのですが、私たちはこの驚くべき出来事を覚え祝うのです。さらには、聖餐式にあずかる度に、あなたのためのイエスの死と復活をあなたは祝っているのです。
祈り:主よ。言葉だけではなく、行動をもってイエスの例にならうことができますように。祝うことができることをこんなにも与えてくださり感謝します。
成功を祝う
1サムエル10:9-12:25
サウルは、神と人との良好な関係を持って、王としての統治を始めました。神の霊は力をもって彼に臨みました。そして、彼は預言しました。(10:9-13)神はサウルに反対を取り扱うための大いなる知恵を与えました。彼は反対を知ったときに沈黙を守りました(27)。
サウルはすぐに問題を起こす人たちを取り扱わなければなりませんでした(27)。神はまた人の心をも動かされました(26)。しかし、いつもながら、聖書は現実的です。問題を起こす人たちはすぐ近くに居るものです。どんなところにも、神は力強く働いておられます。そして同様に問題を起こす人たちもいるのです。
全住民の右目をえぐり出したいという残酷な要求に神の民が直面した時、「神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった(11:6)」のです。神は大いなる勝利をサウルに与えました。サウルはそのあとで知恵深くこう言いました。「きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。(13)」それに代えて、彼らは「そこで大いに喜んだ(15)」のです。
サムエルの惜別スピーチの中で、神の民が神に助けを求めたときに、神はどれほど願いを聞き入れて成功を与えてくださったかについて述べました(12:8、10-11)。サムエルは彼らに「主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。(24)」と勧めました。それらの多くはサムエルの祈りの結果としてきたものでした。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。(23)」
祈りを自分の必要や心配事のためだけに集中しすぎて、他者のために祈ることを忘れないようにしましょう。私たちがお互いに祈ることはとても大切です。
今日の箇所はサムエルが人々に「主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。(24)」と語るところで終わります。あなたの人生でどんなことが起こっても、あなたの赦し、聖霊の賜物、栄光の約束、そして神があなたのためになされたその他の偉大な出来事を振り返り、思い、祝うのです。
祈り:主よ。今日、私はあなたが私のために成してくださったすべての偉大な事柄を振り返り、感謝し、祝います。アーメン。
H.K