Tokyo Chapel

2019年2月28日

第59日

豊かなあわれみ

一人の男が名うての画家に肖像画を描かせました。肖像画が出来上がって、お披露目となりました。出来栄えをみて男はとても不機嫌になりました。好きかどうかを問われたとき、男は答えました。「私はこれを正当に評価することが出来ない。」すると、画家は答えました。「恐れ入りますが、あなたに必要なのは『正当(justice)』ではありません。むしろ『あわれみ(mercy)』です!」

最期の日には、私たちは皆、正当さよりもあわれみを必要とします。神は「あわれみ深い(エペソ2:4)」お方です。「神のあわれみ」というテーマは聖書を貫いています。ギリシャ語の「エレオス(eleos)」は「憐れみ、同情、哀れみ、慈悲」などの意味があります。神のあわれみはあなたにも及びます。今日の箇所には、神のあわれみを受け取った人々の例を見ることができます。


1.葛藤

詩篇27:7-14

あなたの人生に中で、たとえどのような葛藤に遭おうとも、神の約束は握り続けなさい。主のいつくしみは、やがて行く御国においてだけではなく、今生きているこの世界に及ぶものだと期待しなさい(「生ける者の地で」27:13)。

ダビデは「私をあわれみ、私に答えてください。(7b)」と叫んでいます。偽りの訴えに遭うことは耐えがたい経験です。ダビデは「待ち伏せ(11b)」「仇」「偽りの証人(12b)」に苛まれていました。この痛々しい体験を通る中で、ダビデは神にあわれみを叫び求め、すべての非難の真っただ中で「私はこの確信にとどまります。私は生ける者の地で主が良いお方であることを見るでしょう。(13,NIV訳)」

ダビデがこの確信を持つことが出来た理由は、神が彼の「救いの神(9b)」であることを、そして完璧な親と認識していたからです。「私の、私のが、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(10)」

今日、多くの人々が両親からの愛の欠如の結果に苦しんでいます。しかし、あなたの両親との関係がどのようなものであったとしても、あなたは完全な親との関係のような絆を描き始めることができます。

神はそのような親です。神が誠実であることは疑いようがありません。神の惜しみないことは完璧です。神の愛情は優しく、満ち溢れています。神の臨在は永遠です。神があなたを受け入れることは無条件です。神のコミュニケーションは建設的で、あなたに最高の関心を払っておられます。神の権威は正しく真実です。

ダビデが「主は私を受け入れてくださる(10b,NIV訳)」と記す時、彼はそのような完全な親の属性を考えていたのです。

神はあなたが特に葛藤の中にある時、あなたをふるい落とすことはありません。地上の親たちの中には、その子たちが受けるにふさわしいと思うときだけ愛を与え守るという人々もいるでしょう。神はそうではありません。驚くべき真理は、私たちの天の父は、たとえ私たちが受けるに相応しい者ではなくとも、あわれみ深く、愛と守りを与えてくださるのです。

祈り:聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。私の心は申します。「主の御顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。…私を平らな小道に導いてください。(7-8,11)


2.子どもたち

マルコ10:13-31

普通、社会では子どもたちが重んじられるということは滅多にありません。しかし、イエスは子どもたちにあわれみを向けました(13-16)。イエスは言いました。「神の国は、このような者たちのものです。(14b)」「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された(16)」のです。イエスは子どもを抱き寄せて祝福されました(16)。教会という共同体として、私たちもまた子どもたちを同じように愛し、守り、イエスがされたように時間もエネルギーも資源も優先することを明確にしなければなりません。

実に、イエスは私たちに告げます。私たちが誰であれ、年齢がいくつであれ、私たちは皆、神の国の一員になろうとするなら、子どもたちから学ばなければなりません。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。(15)」

イエスは私たちがあらゆる面で子どものようになることを示唆しているのではありません。私たちの行動に責任がないような気まぐれな子供っぽい生き方を与えられてはいません。しかし、私たちがどれほど傷つきやすく、壊れやすいかを知り、私たちがどれほど他者を必要としているかを知ることについて、子どものように、オープンで、受容し、感覚に正直でありましょう。子どものように、素早く赦し、すぐに信頼しましょう。

子どもは普通、熱情的です。贈り物を受け取る時、感謝と喜びを爆発させます。神の国が来るとき、私たちは確かに同じでしょう。私たちへのイエスの賜物に応じて、私たちが受けるに相応しくないのに、賜物として受け取ることができるように、イエスはあわれみによって、私たちに差し出されているのです。

祈り:主よ。子どもたちから学ぶことができますように。正しい方法で子どもたちのようになれますように。あなたがなさったように、子どもたちを優先することができますように。


3.貧しい者

イエスは裕福な若い男に「貧しい人たちに与えなさい。(21)」と言いました。これはまさに自分の益だけでなく、貧しい者はイエスの生涯と働きにおいてもう一つの高い優先順位であったことは確かです。

祈り:主よ。あなたがなさったように、貧しい者に愛とあわれみを私が持つことができますように。


4.裕福な者

イエスのあわれみは貧しい者だけにだけではなく、裕福な者にも向けられました。イエスはこの裕福な若い男に「いつくしんで(21a)」見つめられました。金持ちが神の国に入ることは極めて難しいことです(24-25)。

裕福な人々や裕福な国々が時として福音に対してより抵抗します。繁栄は傲慢や間違った独立独行へと導き得ます。しかし、イエスは裕福な者が救われることは不可能ではないというのです。「どんなことでも、神にはできるのです。(27)」

祈り:主よ。あなたはとてもあわれみ部会ことを感謝します。貧しい者にだけではなく、裕福な者にもです。


5.迫害される者

イエスはご自身に従う者は皆、迫害されるだろうと言いました(30)。私たちの幾らかの人々にとって、「迫害」はとても縁遠いものです。人々はあなたに向かって笑うかもしれません。また冷やかしたり、反対するかもしれません。しかしながら、世界中の何百万ものクリスチャンにとって迫害はまさに現実であり、身体的なものです。

迫害、それはイエスに従う犠牲の一部です。イエスに従うことには常に犠牲が伴います。友を失うかもしれませんし、ある状況や関係から離れるようにイエスは召されるかもしれません。しかし、犠牲は祝福とサンドイッチになっています。このように生きることには百倍の見返りがあります(29-30)。「それに、永遠の命のボーナスがあります。(30,MSG訳)」神は迫害される者に対してあわれみ深いのです。

祈り:主よ。勇気、実例、そして実際に困難な現実に面している人々のインスピレーションをありがとうございます。どんなに犠牲を払うことがあってもあなたに従うための大胆さを与えてください。


6.罪責感

レビ4:1-5:13

私たちは皆、罪を「すべてを犯した者」です(ヤコブ2:10)。この箇所には「咎を覚える」という言葉は頻繁に出てきます(レビ4:3,13,22,27、5:2,3,4,5)。罪には償いが伴います(5:5-6)。使徒パウロは「罪の支払う報酬は死(ローマ6:23)」であると言っています。

この箇所で描かれている詳細ないけにえは、一度で完成されたイエスのいけにえのために人々に準備されていたものです。イエスは罪を犯したあなたと私のために死んでくださり、私たちは神のあわれみを受け取るのです。

  • イエスはあなたの罪の贖いとなられた
    罪の贖いがなければ赦しはもたらされません(レビ4:31,35、5:10,13)。贖いの定義として「二者が一つになるために(それに従って「at-one-ment」)、不正、あるいは損害に対して償いをする行為」ということができます。究極的にはイエスだけが私たちの罪のための完全な贖いとなられるのです(ヘブル2:17)。
  • イエスは贖いのいけにえとして死なれた
    私たちはここで「罪のためのいけにえ」の詳細な、いけにえのシステムを読みます。(レビ4:3,29,33,34、5:9,11,12)イエスはあなたの罪そして私の罪のために「贖いのいけにえ(ローマ3:25)」となって死なれました。
  • イエスは完全ないけにえであった。
    いけにえは「傷のないもの(レビ4:3,28,32)」でなければなりませんでした。究極的には完全ないけにえになり得るのはイエスだけでした。(ヘブル5:9)
  • イエスは神の小羊
    子羊が罪のいけにえとして連れてこられました(レビ4:32)。罪を犯した人はその手を子羊の頭に載せなければなりませんでした。子羊は罪を拭い去るための罪のささげものとして殺されました。イエスは「世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)」です。
  • イエスのはあなたの上に注がれた
    祭司は「罪のためのいけにえのを取り、…その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。(34)」血は動物の命をあらわしています(17:11)。血を注ぐことは、動物が死んだことを象徴的に表わします。これは人に代わっていけにえとなったということです。イエスの血はあなたや私のために注がれたのです(マタイ26:28)。
  • イエスは神のあわれみをすべての人々にもたらしました
    「赦し」や「赦された」という語は、何度も何度も現れます(レビ4:20,26,31,35、5:10,13)。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)」イエスの血によって、罪の赦しが可能となったのです。(エペソ1:7)。その結果、神のあわれみはあなたにも私にも及ぶようになったのです。

祈り:主よ。もはや私たちがあわれみと赦しを受け取るために細々としたプロセスを通る必要がなくなたことを感謝します。完全な赦しはイエスを通してもたらされました。あなたが私に「あわれみ豊かな」偉大な愛を与えてくださったことを感謝します。アーメン。

H.K