Tokyo Chapel

2019年3月2日

第61日

愛する関係、継続する関係

ロック・グループ「クイーン」のリード・ヴォーカルであったフレディー・マーキュリーの最後の曲の一つの中に、こう尋ねる歌詞があります。「私たちが何のために生きているかいったい誰が知ってるんだい?」

彼は巨万の富を築き、何千ものファンを魅了してきたという事実にも関わらず、フレディー・マーキュリーは1991年に彼が亡くなる前の短いインタビューで自分が絶望的な孤独にあったと答えているのです。彼は言いました。「世界中のすべてを手に入れることが出来てもそれでも最も孤独な男でありえるのさ。これは一番きつい孤独さ。成功は俺を世界のアイドルにし、何百万ポンドも手に入れた。けれど、人が皆必要とする一つのものから俺を遠ざけた。それは…愛する関係、継続する関係。」

愛し、継続する完璧な関係はたった一つしかありません。それは私たちを創造してくださったお方との関係です。その関係がなければ、つねに深い孤独を感じます。そして、究極的な意味と目的を欠くのです。

キリスト教信仰の中心は神とのこの関係です。そこに、私たちは、私たちが何のために生きているのかを見出すのです。

どのようにして、あなたも私も全宇宙の創造者との関係を持つことが可能なのでしょうか?実際に、どうやって神とのコミュニケーションを始めることができるのでしょうか?この関係の基礎となるものは何なのでしょうか?


祈りのパターンを進展させる

詩篇28:1-9

祈りは神に語りかけることによって神との関係を進展される鍵となる方法です。これをするのに、決まった方法などありません。聖書の中には何百もの異なる祈りがあります。時々、このパターンに従ってみることは良い助けとなります。(たとえば、「主の祈り」)他のパターンでは、A.C.T.Sの頭文字で始まる「賛美(Adoration)、告白(Confession)、感謝(Thanksgiving)、願い(Supplication)」というパターンで祈るというのもあります。これらの要素は聖書の中の祈りにしばしば見出されます。

この詩篇の状況は恐れです。たぶん、いつ死を迎えるかわからない状況です。ダビデは病気か深い絶望に直面していたのでしょう。ダビデは不名誉な死と「穴に下る(1)」かもしれないことを恐れました。

ダビデの神への祈りは次のものを含みます。

  1. A:主を崇める(adore)
    ほむべきかな。主。(6a)」困難に直面する時にでさえダビデは主を賛美することを選びました。状況がどうであれ、神は神であるゆえに、そして神がなされた業のゆえに賛美されるべきお方です。私たちはその他の例として、新約聖書の箇所で人々がイエスを礼拝するのを見ます。(マルコ11:9-10)
  2. C:主に告白する(confess)
    「私の叫びをあわれみのゆえに聞いてください。(詩篇28:2b NIV訳)」もし過ちをおかしたなら、主に赦しを求めます。それは、あなたが赦さなければならない人を赦す時でもあります。イエスは今日の新約聖書の箇所でこう言います。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。(マルコ11:25)
  3. T:主に感謝する(thanks)
    「私は歌をもって、主に感謝しよう。(詩篇28:7c)」健康、家庭、友人…与えられた全てのもののゆえに主を賛美しましょう。感謝の重要性については今日の旧約聖書の箇所にも見ることができます。(レビ7:12-15)
  4. S:主に願い求めるsupplication)
    「私の願いの声を聞いてください。(詩篇28:2a)」あなた自身のため、友人のため、他者のために祈りましょう。興味深いことにダビデは手を上げて祈りました(2b)。手を上げることは祈りと同義語のようです。礼拝の時に手を上げることは、現代的なアイデアではありません。これは実際、もっとも古代的な祈りの形式なのです。

祈り:主よ。あなたをあがめます。今日、あなたを礼拝します。主に向かって賛美せよ。私はあなたに罪を告白し、私の叫びを聞いてください。私の罪を赦しあわれんでください。私はあなたに感謝をささげます。あなたは良いお方であるゆえに。主よ。ありがとうございます。私の願いをあなたは聞いてくださいます。今日、私はあなたに助けを求めます。


信仰による祈り

マルコ11:1-25

新約聖書が強調していることは、私たちは信仰によって神とつながるということです。私たちは神との関係を当然の報いとして受ける権利は持っていません。ただ信仰によって賜物として受けるものです。この箇所で私たちはイエスが信仰を強調していることの重要性が分かります。イエスは「信仰を持ちなさい(22 NIV訳)」と言われました。その信仰とは、「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」(23)という信仰です。

イエスは、特に祈りによって、神との関係を持ちました。それは今日私たちが読んで知るそれぞれの出来事の中心にあります。イエスがエルサレムに近づいた時、人々はイエスを拝しました。彼らは「ホサナ」と叫びました(9-10)がこれは「救い、私たちは祈る」または「今救ってください」という意味で、歓喜と嘆願の両方の意味を元来もっています。

エルサレムに到着すると、イエスは両替人を追い出しました。なぜなら、神の家のきよさへの情熱がイエスにあったからです。イエスは言いました。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。(17)」

この箇所の終わりにイエスは弟子たちに、赦しの欠如は祈りの妨げ、神との関係の妨げとなることを教えました。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。(25)」

イエスは「誰かに反対するどんなこと(25,NIV訳)」をも握ってはならないと言ったのです。赦しに制限はありません。赦しの欠如は関係を破壊します。

赦しは時に大きな勇気を持たなければなりませんが、関係を回復し、大きな喜びをもたらします。「最初に謝る者は最も勇気ある者、最初に赦す者は最も強い者、最初に忘れる者は最も幸せな者。」という格言の通りです。

一連の出来事を撚り合わせて、イエスは祈りの力をいちじくの木の比喩的行為によって示されました。ここから、イエスは弟子たちに信仰の重要性と神との関係における実について教えたのです。

いちじくの木は葉ばかりで実がなっていませんでした。イエスは「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。(14)」と木に向かって言いました。私はジョイス・マイヤーが用いるこんなたとえが気に入っています。「もし、私たちが教会の周りをぐるぐる生活してたとしても、全然実を結ばないなら、私たちは信仰を生きてはいないのです。」私たちは聖書を読むことができます。クリスチャン・ポッドキャストを聴くことができます。祈り会に行くことができす。でも「もし、私たちが誰かを助け、親切さを見せる時間さえないなら、私たちは葉だけで実をならせないいちじくの木と同じです。…もし私たちに葉が茂っているなら、同じように実を実らせることが必要なのです。

私たちは、神が信仰の応答に答えてくださる準備が出来ていることに完全な確信を持たなければならないということをイエスはたとえを用いて表わされたのです。ラビ文書には「山」は時々障害物のたとえとして用いられると記されています。神は不可能と思える障害物を信仰に答えて動かすために来てくださると、イエスは言っているようです。主は言いました。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(24)」

祈り:主よ。もし私が今日赦す必要のある誰かがいるなら教えてください。赦すことを助けてください。あなたの驚くべき約束を感謝します。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(24)」主よ。今日、私はお願いします…。


イエスを通して神に近づく

レビ7:11-8:36

旧約聖書の時代、人々は祭司を通して神との関係を築きました。罪のゆえに直接的に神と関係を持つことが出来なかったからです。人々は祭司を通して行く必要がありました。特に、彼らには大祭司が必要でした。

この箇所で、私たちはアロンがこの務めのために油注がれたのを見ます。モーセは「そそぎの油をアロンの頭にそそぎ、…聖別した。(8:12)」とあります。アロンはイエス・キリストの型です。キリストとは「油そそがれた者」という意味です。アロンの祭司職は誤りを免れないものでした。彼は民同様に自分自身の罪のためにもいけにえをささげる必要がありました。イエスは偉大な大祭司です。イエスを通して、あなたは確信をもって神との関係を持つことが出来、直接的な関係を持つことができるのです。

ヘブル人の手紙の作者は言います。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に(確信をもって,NIV訳)恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:14-16)」

実際、あなたの罪のためにイエスが犠牲になってくださったので、あなたは旧約聖書の祭司よりも良い立場にあるのです。(レビ8:30とヘブル10:22を比べて)悔い改めと赦しを通して、あなたと神との関係はまったく変化したのです。あなたは直接神の臨在に来ることができるようになりました。それはちょうど旧約聖書の祭司が会見の天幕に入って行った時のようなものです。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:22)」

祈り:主よ。イエスを通して、私は恵みの御座に近づくことが出来、恵みとあわれみを受けることが出来ますことを感謝します。今日、私が行い、語るすべてのことにあなたの恵みとあわれみを願い求めます。あなたのそばに留まることができますように、あなたとの愛する関係、継続する関係のうちに歩ませてください。アーメン。

H.K

References

Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) p. 1583

Queen, ‘The show must go on’, Parlophone, 1991. Lyrics © EMI Music Publishing

Sharon Feinstein, Sunday Magazine, Freddie Mercury – ‘Rock On Freddie’ (May 1985)