Tokyo Chapel

2018年9月30日

第273日

それを跳ね返す

それは私が今まで出会った最も感動した力ある証しの一つでした。以前、性風俗で働き、薬物依存で売人であった彼女がいかにそこまで至ったかを彼女自身の言葉で言い表しました。彼女は「死んでいた」と。彼女は自分の「血は黒く」、「心は黒かった」と言いました。彼女はアルファにどのように来たか、そしてイエスが自分のために死んでくださるほどに愛してくださったことを聞いたことを言い表しました。彼女はこれが彼女の「心のコンクリート」をどのように砕いたかを説明しました。初めて彼女は神の愛を経験しました。彼女は今すべての人々への愛に満たされ、彼女を虐待した人々を赦し、キリストの愛を輝かせています。

彼女が自分の証しを話し終えた後、聴衆は唖然としました。私は彼女にそれがどれほどとてつもなく力あるものであったかを告げて感謝しました。彼女はそれに応えて「私は跳ね返ることが必要です!」と言いました。私は彼女が意味したことを理解できず、説明して欲しいと尋ねると、彼女は言いました。「それはすべて主の恵みです。私は主に向かって栄光を跳ね返すことが必要です。」彼女は恵みを、栄光を深く理解していました。そしてその意味したことはキリストのようでした。

栄光」のテーマは今日の箇所のそれぞれに見られます(詩篇115:1、ピリピ2:11、エレミヤ2:11)。私たちは神に栄光を跳ね返すのがなぜか、どのようにしてか、いつかについて見ます。


なぜ神に栄光を帰するのか

詩篇115:1-11

ジョン・ウィンバーが、彼が話したトークや彼のミニストリーを通して起こった癒しのゆえに人々が自分を称賛した時、よく彼は言いました。「私は励ましを受け取りますが、栄光は素通りさせます。」

詩篇の作者は私たちに栄光を素通りさせる、つまり神に跳ね返す、大いなる手本をもたらしています。彼は「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(1)」と言って始めます。彼は続けて、なぜあなたが神に栄光を帰し、礼拝すべきなのかという2つの理由を示します。

第一に、神の愛と誠実さの私たちの体験が理由です(1b)。礼拝は神があなたのためにしてくださったことへの応答です。神にすべての栄光を帰しましょう。

第二に、あなたは、あなたが礼拝する者に似るようになるからです。「これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(8)」それで、もし私たちが偶像を礼拝すると、私たちは全く命のない者になり、どんな価値のあることも出来なくなります。

あなたの「助け、また盾である」主にあなたの信頼を置きましょう(9-11)。あなたの信仰を主に置き、主を礼拝するのです。そして、あなたは神に似た者になるのです。あなた彼に似た者に変えられ、いのちを目一杯得るのです。

祈り:主よ。私の助け、私の立てよ。あなたの愛と誠実をもっと体験することが出来ますように。あなたにすべての栄光を帰し、「跳ね返す」ことが出来ますように


どのように神に栄光を帰するのか

ピリピ1:27-2:11

パウロは、どのようにあなたがイエスのようになることによって神に栄光を帰するのかを説明します。「キリスト・イエスがご自身についてお考えになったように、あなたがたも自分のことを考えなさい。(2:5,MSG訳)」「イエスの御名(10)」と「神がほめたたえられる(11)」ことにより、態度においてキリストのようになりましょう。

「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。(1:27)」それは特権です。イエスをただ信じるだけでなく、主のために苦難し葛藤することも賜っているのです(29-30)。

人々や出来事があなたに反対して起こってきた時、あなたが遭遇する義務があるすべての反対や攻撃に対して一致して「しっかりと立ち(27)」なさい。ここでパウロが用いた言葉は「ファランクス(phalanx)」です。それは最も手ごわい古代の軍事隊形です。盾を一緒に合わせて、槍を前に向け、8人の男たちが肩と肩をぴったりと合わせて立ちます。隊形を崩されない限り、彼らは実質上、無敵です。

一致して立ちなさい。ビジョンを一つにし、メッセージ、良き知らせに対する人々の信頼を勝ち取るために戦い、反対を前にして、少しもひるんだり、身をかわしたりすることのないようにしなさい。彼らに直面し、あなたがたの勇気と一致を彼らに見せなさい。彼らを敗退させなさい。勝利はあなたのものです。そのどちらも神のゆえにです。(27-28,MSG訳)」

キリストに似た態度は、この一致のための鍵です。教会内のあらゆる不一致はパウロの「喜び(2:2)」を損なうものでした。不一致は「自己中心や虚栄から(3a)」生じることがしばしばあります。鍵は自分のことよりも他の人のことを考えることです(3b)。自分自身の関心にだけ目を留めるのではなく、「他の人のことも顧みなさい。(4)」

「あなたのやり方を前面に押し出してはなりません。言葉巧みにあなたのやり方を上位に持って行くようにしないように。自分自身を脇にやりなさい。そして他者が前に出ることを助けなさい。自分自身が有利になることで頭が一杯になってはいけません。自分のことを忘れ、助けの手を十分に貸すことを切望しなさい(3-4,MSG訳)。」

言い換えるなら、あなたはイエスと同じ態度を持たなければなりません。イエスは生まれながらの、法的、社会的立場を去らせ、「ご自分を無に」なさいました。イエスは「仕える者の姿をとり、…自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(7-8)」イエスは社会的地位が下る方向に向かい、へりくだって仕え、自己中心ではない愛を示す道を歩まれたのです。もし、あなたが未だにあなたの相対的な立場について心配しているなら、イエスはご自身を私たちが想像できないほどに低い所に置かれたことを思い出しましょう。

そしてその結果、「神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(9-11)」するのです。

これがあなたが神に栄光を帰することが出来る方法です。へりくだって仕え、無私の愛の内にキリストに従うことです。

祈り:主よ。イエスと同じ態度を私に与えてください。父なる神に栄光をもたらす道を歩むことが出来ますように。いつもあなたに栄光跳ね返すことができますように。


神に栄光を帰するとき

エレミヤ1:1-2:30

あなたやあなたの周りの人々の人生にトラブル、困難、混乱が生じた時に何が起こるでしょうか?

エレミヤはイエスラエルの歴史の中で問題のある時代に生まれました。587 BCにエルサレムが陥落し、バビロン捕囚が起こったのです。エレミヤは人々に告げることが難しいメッセージを委ねられました。彼は大きな勇気をもって、憎しみと迫害に遭いながらそれを推し進めました。

エレミヤ書の最初の章はあなたが神に栄光を帰することができるさらに2つの方法といつあなたがそうできるのかについて示しています。

第一に、あなたが神の召しに応える時、あなたは神に栄光を帰します。年齢はリーダーシップの壁とはなりません。エレミヤは神が彼を召した時、多分ティーンエージャー(十代の青年)であったでしょう。それはおよそ627 BCの頃です。彼は「生まれながらのリーダー」そしてまた「生まれながらの預言者」と称することができるでしょう。彼が生まれる前から、彼は預言者として取り分けられていたのです。神は言います。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。(1:5)」

神はあなたのすべてを知っておられます。良いところも悪いところも。神にとって知りえないことはありません。神はあなたを愛しています。神はあなたがするすべてのことを必ずしも是認しているのではありません。しかし、神はあなたにエレミヤのように、神の愛と認証を知る自由をもって生きて欲しいと願っておられるのです。

主はエレミヤに告げたように、主があなたに行くように言われところどこにでも行き、主があなたに言うこと何を言ってもそれを言うようにとあなたに告げられます(7)。これは究極的にあなたの肩から責任をおろさせます。神に栄光を帰することは全世界を救おうとすることを意味してはいません(それは神の責任です。)しかし、神があなたにするように求めたことをすることを意味します。神は反対があることを警告します(17-19)。

第二に、あなたが神の選びに応える時、あなたは神に栄光を帰します。神はエレミヤに人々が価値のない偶像を礼拝することを警告し、ご自身を礼拝するように立ち返ることを呼び掛けるように求めました。

エレミヤは言いました。「わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。(2:11)」これは価値ある神を否定しただけでなく、実際は自滅です。私たちが神に背を向ける時、私たちは神との関係の祝福を失い、役に立たないものにそれを置き換えているのです。神は嘆きます。「湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(13)」

ことさらに、彼らは「もっと、もっと、もっと『したい』― 貪欲な、見境がなく、誰とでも寝る(24,MSG訳)。」彼らは「病みつきになり」そして「やめる」ことが出来ない(25,MSG訳)。

再び、あなたがどんなものでも礼拝するものに似たものになるのを私たちは見ます。「価値のない偶像」に従う者たちは「むなしいもの(5)」になるのです。もし、あなたがイエスに従うなら、あなたはイエスに似た者になります。もし私たちが私たちの野望と自己中心的な欲望を通して、満足や、意味と目的を見つけようと試みあるなら、私たちの人生は無価値なものになります。

エレミヤは、神の民が神の選びに応えようとしなかったことに失望しました(30)。彼らは神の祝福を見捨てて、神に栄光を帰することに失敗ました。これをすべて正して、イエスがご自身の栄光を捨て置いて私たちを救うために人となって来て下さったことを神に感謝します。神にすべての栄光あれ!

祈り:主よ。私が、いのちの水の泉である、イエスから目を離さないように助けてください。そして私の顔をイエスに向け続けることが出来ますように。私をキリストのようにならせてくださり、あなたにすべての栄光を帰することができますように。アーメン。

H.K