Tokyo Chapel

2018年1月30日

第30日

神は私たちの祈りにすべて答えてくださるのか?

私は、自分ではあまり上手ではないのですが、クリケットが好きでよく観戦します。でも、私は多くの人々がクリケットが好きではなく、ルールもあまり知らないことを知っています。(特にクリケットがあまり盛んでない国の人はそうでしょう。)というわけで、クリケットのたとえを用いることを少々我慢して頂きたいのです。

ボウラーの投球を打った後、2人のバッツマン(ストライカーとノンストライカー)がそれぞれ相方側のウィケットの方向まで走ります。バッツマンは、走ってもアウトになりそうだと判断した場合は走らなくて良いのですが、走るかどうかを判断する際に、一人が相手に指示します。その時のかけ声が「Yes」(走れ)、「No」(とどまれ)、「Wait」(待て)の3種類なのです。

神は、私たちの祈りをすべて聴いてくださいます (詩篇139:4, 1ヨハネ 5:14–15, 1 ペテロ 3:12) 。ある意味で、神はすべての祈りに答えてくださるのです。しかし、常に私たちの願ったとおりの答えとは限りません。私たちが神に何かを求めるとき、その答えは「Yes」「No」または「Wait」なのです。

ジョン・ストットはこう記しています。もし、私たちが願い求める事柄がそれそのものが良くないことであったり、私たちにとってあるいは誰か他の人々にとって良くないなら、直接的にあるいは間接的に、即座にあるいは最終的に、神は「No」と答えられるだろう。

私たちは常にその答えがなぜ「No」なのかという理由が分かるわけではありません。私たちは神が永遠の視点から物事をご覧になられ、ある事柄については、私たちの人生の中では理解できないことがあるということを覚える必要があります。

今日の箇所に、私たちは神からの3つの種類の答えすべての例を見るでしょう。


神が「Yes(よし!)」と言う

詩篇17:13-15

あなたは、朝、目が覚めたら最初にすることは何でしょうか?ダビデは手本を示してくれています。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。(17:15)」ダビデは毎日、神の臨在を求め神にあって満ち足りることを知って一日をスタートしました。

これこそが、祈りとは何かということを的を得て言い表しています。祈りとは、神から何かを求めることよりも、神の御顔と神との慕わしい交わり楽しむことを求めることです。

これがダビデが求めた文脈です。彼は、自分が置かれている窮地を訴え、敵から守り撃破してくださいと神の御顔を仰いで求めています(13-14)。神の臨在と恵みを慕い求める祈りに神は「Yes(よし!)」と答えてくださいます。

祈り:主よ。あなたの御顔を求めることほど、私たちに満足を与えるものがこの地にはありません(15a)。日々、目覚めるとき、あなたの好むところを見て満足させてください(15b)。


神は一方で「No」と言い、他方で「Yes」と言う

マタイ20:20-34

ビル・ハイベルズはこう書いています。「もし神に間違った求めをすれば、神は『だめ(No)』と言われる。時期が異なっていたら『ゆっくり(Slow)』と言う。あなた自身が間違っていると『成長せよ(Grow)』と言い、あなたが正しく、正しい求めを、よいタイミングで求めるなら『行け(Go)』と言われる。」

この箇所では、二つの求めがありますが、最初の求めの答え(20:20-28)は「No」で後の求めの答え(29-34)は「Yes」です。

  1. 二つの求め
    どちらの場合もイエスは「あなたは何を求めているのか?」と尋ねています。ゼベダイの子の母には「どんな願いですか?(21)」と尋ね、二人の盲人には「何をしてほしいのか?(32)」と尋ねておられます。ある意味で、彼らが何を求めているのかをはっきりさせなければなりませんでした。(二番目の例では、彼らは目が見えなかったので、彼らは見えるようになりたいと願わねばなりませんでした。)しかし、神は私たちに積極的にかかわるように願っておられます。使徒ヤコブは「…あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(ヤコブ4:2)」と言いました。イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)」と言いました。一見当たり前のようですが、答えられる祈りの出発点は実際的に「求める」ことです。
  2. 二つの応答
    盲人たちの求めの場合、イエスの応答は「Yes(よし!)」でした。「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。(34)」他方、イエスはゼベダイの子たちの母には、要するに「No(だめ!)」と言いました。この応答もまた、かわいそうに思ってのことでした。彼女の求めは息子たちの栄誉、権力、昇進のためでした。イエスは彼女の求めに隠れているものを彼女は自分で理解していないようだということを指摘したのです。

    イエスは言いました。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。(22)」旧約聖書の預言者たちは度々「神の怒りの杯」という言い回しを用いています(たとえば、イザヤ51:17-22、エレミヤ25:15-29)。

    ショッキングなことに、イエスはご自身がその杯を飲むことについて語っています。イエスは「贖いの代価として、自分のいのちを与え(マタイ20:28)」ようとしてるのです。ギリシャ語では「多くの人のための」の「ため」は「アンティ」という語が使われ、「…の代わりに」を意味します。これは新約聖書全体の中でイエスがご自身の死を「身代わり」としての言葉で表現した最も明白な例です。

  3. 二つの理由
    使徒ヤコブは「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4:3)」と言いました。ここでの求めの背景には異なる動機が横たわっています。どちらの求めも支配に関係しています。盲人の男たちの求めは、イエスが「」であることを認識してのことでした。そして、良いものを求めたのです(マタイ20:30-33)。他方、イエスは、この母の求めは「主のように威張る」ためのものであることを指摘したのです。この世が成功として見るもの(裕福、立場、有名になること、働きがうまくいくこと)によって「主のように威張る」ことからは真に偉大なものは生まれてはこないことをイエスは指摘したのです。むしろ、真に偉大さは「仕える者」となることから生まれるとイエスは言ったのです。イエスが「仕えられるためではなく、かえって仕えるため(26-28)」に来られた例に従ってです。弟子たちは間違っていました。そして神は「Grow(成長せよ)」と言われたのです。

私の祈りが「Yes」と答えられた時からよりも、祈りが答えられていないように思える時からの方が多くを学べたと私は思います。そして、確かに弟子たちは「答えられなかった」この祈りから多くのことを学ばなければなりませんでした。

祈り:主よ。あなたは「答えられなかった」祈りから多くを教えてくださることを感謝します。あなたは真の偉大さを見せてくださいます。どうか、あなたに仕え、人々に仕える者となることができるようにお助けください。


神が「Wait!(待て)」と言う

ヨブ15:1-18:21

あなたが直面している困難がどんなものであっても、イエスは、今あなたのために祈っておられるということをあなたは知っていますか?

みじめなヨブは非難の度合いがエスカレートしていく友人たちのまとはずれなスピーチをいらいらしながら受けなければなりませんでした。ヨブは彼らのことを「むなしいことば(3a)」で語る「煩わしい慰め手だ(16:2)」と表現しました。彼らはヨブの助けには全くなりませんでした(4)。

ある人々は、私たちの人生における苦難は常に私たち自身の罪が原因であるか、または前世での罪によるのだと間違って信じています。もし、人々が貧困のうちに生まれたり、遺伝的な疾患を患ったりすると、それは彼らの過失なのだと考えるのです。このような非難は必要のない新たな恐ろしい苦痛を付加してしまいます。これがヨブの「友」と呼ばれている人達が語ったことなのです。(輪廻転生の思想は聖書とは全く関係がありません。ヘブル9:27)

私たちの友人が苦難に遭ったとき、私たちは「煩わしい慰め手(2)」になることを避けて、むしろ、ヨブが示唆するように、私たちは「励まし」「慰め」そして「力」を与え、苦難を和らげる者となりましょう(5)。

私たちが常にできる一つのことは、彼らのためにとりなして祈ること、つまり、その人に代わって祈ることです。ヨブは言いました。

私のとりなし手は私の友です。
私の目が神に向かって涙を流すとき。
人間を代表して、その人が神に弁護してくださいますように。
友のために弁護する者として。(20-21,NIV訳)

私たちにとりなし手が誰であるのかということは告げられていませんが、それが誰であれ、その人こそヨブの真の友人です。なぜなら、その人が神に対してヨブを弁護していたからです。

とりなしの祈り手は即座の祈りの答えを見ることができないかもしれませんでした。しかし、彼らはやがて神がヨブの将来が立て直されたときにその答えを見ました。ヨブのとりなし手とヨブに対する神の答えは「Wait(待て!)」でした。のちになって、ヨブの回復が即座になされたのは、ヨブの他者へのとりなしによるものでした(42:8-10)。

誰がヨブのとりなし手でしょうか?ヨブは言います。「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。(16:19)」新約聖書を通して、私たちはそれが誰であるかを知ります。「人のために神にとりなしをして(21)」くださるのはイエスです。イエスは「御父の前で弁護する方(1ヨハネ2:1)」でありあなたのためにとりなしてくださるのです(ヘブル7:24-25)。

イエスはヨブを弁護されました。そしてヨブのためにとりなされたのです。イエスは「友のために弁護する者(ヨブ16:21)」として神に懇願してくださるのです。私たちはここで、ヨブの体験とペテロのそれとが似ているのに気づきます。イエスはシモン・ペテロに言いました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)」

かつてジョン・ウインバーはよく言いました。「良いニュースは、イエスが私たちのために祈ってくださることです。悪いニュースは、私たちはそれを必要とするようになるということです!」

祈り:主よ。あなたが私を弁護してくださると約束して下さったことを感謝します。サタンが麦をふるいにかけるようにして、私がヨブやペテロのような状況に置かれても、あなたは私のために祈ってくださいます。そのことを知ることができて感謝します。たとえ、待たなくてはならなくても、天におけるあなたの弁護の祈りのうちに答えは究極的には常に「Yes」であることを感謝します。

H.K

References

Bill Hybels, Too Busy Not to Pray, (Intervarsity Press, 2008).