2019年7月21日
第202日
迷路の出口
ビリー・ノーランは18歳の時に商船隊から脱走しました。彼は35年間アルコール依存でした。20年間ホーリー・トリニティー・ブロンプトン教会の外で酒を飲み、金をせびっていました。1990年5月13日、彼は自分の顔を鏡で見て言いました。「お前は、俺の知っているビリー・ノーランじゃない。」彼の表現を借りれば、彼は主イエス・キリストに自分の人生に入って来てくれるように頼み、二度と酒を飲まないという契約を結んだのです。その日から、彼は一滴も酒を飲んでいません。彼の人生は作り変えられました。彼はキリストの愛と喜びに輝いています。私は一度彼にこう言ったことがあります。「ビリー、幸せそうだね。」彼はこう返事しました。「俺は幸せだよ。だって俺は自由だからさ。人生は迷路みたいだな。ついに俺はイエス・キリストを通して出口を見つけたんだ。」
聖アウグスチヌスは、神が主人であり「彼に仕えることは、すなわち完全に自由であることだ。」記しています。これは偉大なパラドックス(逆説)です。多くの人々は、もし自分が神に仕えるなら、自分の自由を失ってしまうだろうと考えます。実は、それは全く逆です。自分自身のために生きることが、実際は奴隷状態になるのです。「御霊の新しい方法によって(ローマ7:6,NIV訳)」神に仕えることは、完全な自由を見出す方法なのです。神との関係を持つための自由、あなたが心の底から切望した自分自身になることができる自由です。
神に向かって叫ぶ
詩篇88:1-9a
この詩篇はビリー・ノーランが自分自身を見出したように、同じような状況にある人を描き出しています。「私は迷路に迷い込み、出口を見失ってしまった。痛みと欲求不満の涙で目が見えなくなってしまった(8,MSG訳)。」
詩篇の作者は大きな患難の中にありました。彼の「たましいは、悩みに満ち(3a)」ていました。彼は自分が死んでいくのだと思います。「私は地獄の角…望みのない状態で宿営している。もう死んでいるように捨てられた(3-5,MSG訳)」彼は「最も深い穴(6)」に「力のない者のように(4)」「閉じ込められて、出て行くことができません。(8)」彼は支えてくれる最も近しい親友さえも失ったのです。
ただ神だけが私たちを救うことが出来るのです。「神、あなたはその日の私のラスト・チャンスです。(1,MSG訳)」あなたの状況が悪いと感じたとしても、神に自由を叫び求めましょう。
祈り:主よ。私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。(1-2)
神に仕える
ローマ6:15-7:6
機関車トーマスというマンガの一コマにこんなシーンがあります。トーマスがレールから外れたとき、彼は叫びます。「僕は自由だ!ついに自由になったぞ!」現実は、トーマスは「自由」とは程遠い状態にあります。トーマスの車輪がレールにあり、彼がそのように設計されたものとしてレールに沿って操縦されるとき、彼は自由なのです。
それは私たちも同じです。私たちは、もし自分のすることにいちいち口出しする人が居なければ、もっと自由になれるのにと想像するかもしれません。しかし、これは誤った思い込みであり、罪の奴隷とされた私たち自身を見出すことになるのです。それは「行き止まり(6:21,MSG訳)」へと導きます。
次のように言われています。「他の人がやっていることをするだけでは、間違った結論に飛び込むようなものだ。」使徒パウロは読者に対して、間違った結論に早とちりしないように注意を呼び掛けているのです。それは、ある人たちがしていたであろう、罪を犯し続けるかどうかが重要なのではないという議論です。パウロは記します。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。(15)」
赦しの保証は、罪を犯し続ける弁解ではありません。恵みは安易な罪の「免責条項」なのではないのです。2つの理由で、罪を犯し続けることは不条理なのです。
- 新しい主
クリスチャンなら、あなたは新しい主を得たのです。あなたは今は神に仕えるのです。神は「彼の自由におおっぴらに生きるための自由を与えるとあなたに命じる(17,MSG訳)」お方です。好むと好まざるにかかわらず、私たちは皆、何かの奴隷なのです。罪とは私たちの霊を捕縛し、死をもたらす奴隷状態のことです。しかし、神に仕えることは完全な自由をもたらします。「神の贈り物は、本当の命、永遠の命です。それはイエス、私たちの主によって解き放たれました。(23,MSG訳)」
神はあなたの新しい主です。あなたが罪に従うなら、そのときはいつも、あなたは恵みの目的に反対して進もうとしているのです。恵みはあなたに本当の命、永遠の命を与えます。あなたが誘惑に遭う時、あなたは応じる必要がないことを覚えましょう。あなたはもはや罪の奴隷ではないのです。あなたは「ノー」という自由があるのです。
従順の報いを受けることを覚えましょう。神に仕える中で、「聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。(22)」 - 新しい愛
罪を犯し続けることが不条理である理由は、新しい主を得たことと同様に、あなたはまた新しい愛を得たのです。
パウロはこれを描くために結婚の様相について語ります。女性は、自分の夫が死ぬなら、そのとき結婚の定めから解除されます。死は私たちを律法の義務から解放するのです(7:1-6)。
同じように、私たちクリスチャンは律法に対して死んだのです。私たちの古い愛は律法でしたが、クリスチャンにとって、「私たちはもはや暴君的に支配した罪という相棒に束縛されることはないのです(6,MSG訳)」あなたは今はあなたの新しい愛、イエスに結び付けられることができるのです。それはちょうど、夫が死んだ女が新しい愛と結婚することに自由になったようなものです。(4)
今は、あなたはもはや律法のもとにではなく、恵みのもとに生きるのですから、あなたは聖霊を得ており、あなたの内に住んでおられる聖霊は、あなたに正しいことを行う願いと能力をともにあなたに満たしてくださいます。あなたの新しい愛、イエスに結ばれる時、あなたは「古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(6)」しかしながら、私たちが明日見るように、パウロは、私たちが直面する進行中の闘いについて現実的です。
祈り:主よ。あなたに仕えることは完全な自由であることを感謝します。今日、私は私の体のすべての部分を義の奴隷としておささげします(6:19)。私はあなたに仕えたいのです。わが主よ、わが愛よ。聖霊の導きによって。
神の自由を追い求める。
ホセア3:1-5:15
ある人々にとっては「罪」と言われてもピンと来ないかもしれませんが、「過剰に何かを愛すること」(偶像礼拝)はなんとなく私たち多くにとって理解できることです。私たちの至高の愛は私たちが仕え、礼拝するものです。
この旧約聖書の箇所は、パウロがローマ人への手紙で詳しく説明した原則の描きを提供しています。その原則とは、罪を犯す者は罪の奴隷であり、その人の人生は迷路に迷い込んだような羽目になるということです。
神はご自身の民を愛します(3:1)。預言者ホセアは、売春に身をやつす女であるにもかかわらず妻として愛を注ぐことで、これを視覚教材的に見せることに召されました(1)。「そのようにして彼女を愛すように、神であるわたしがイスラエルの民を愛す。たとえ、彼らが彼らの気まぐれな空想で得たすべての神々とともにデレデレとパーティーをしていたとしても。(1,MSG訳)」
ホセアは主の言葉を語ります。「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。(4:1-2)」人々は、姦淫と売春の罪責がありました(13b,15、5:3)。これは今日の多くの社会のかなり正確な描写です。
指導者たちは決してよい手本ではありませんでした。「彼らは(祭司たちは,NIV訳)ふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている。だから、民も祭司も同じようになる。(4:7-9)」
自由を知りながら、罪を犯し続け、彼らは自分たちの罪の結果として、満足を得ることが出来ず、奴隷状態となったのです。「彼らは食べても食べても空腹は満たされない。セックスをしても満足はない…ぶどう酒やウイスキーで私の民は意識を失う…酒とセックス、彼らは自分の家への帰り道を忘れる。彼らは神と、彼らの性器を置き換えた(10-12,MSG訳)。」彼らは「偶像の依存症だ…ビールが切れた時、もっとセックスを…。(17-18,MSG訳)」という。
彼らは自分自身で神に立ち返ることがもはや不可能でした。「彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。(5:4a)」姦淫と売春が民の中に蔓延していました(4:13b,15、5:3)。それはあたかも悪魔の力のもとに置かれたようなものでした。「姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。(4b)」主は彼らから手を引いたのです(6)。
しかし、神が手を引いたのは、それによって、民が神のもとに帰って来るかもしなかったからです。立ち返ることは、彼らが自らの罪を認めて、神の御顔を慕い求めることです。「彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。(15b)」
「私たちが神を追い求めるというのは、正確にはどういうことなのでしょうか?」とジョイス・マイヤーは記します。「ひとつの方法は、神について考えること、そして神にとって大切なことは何かを考えること、そして、特定の状況について神が何と言っているかということです。私たちが神を追い求める時、私たちは私たちの問題に対して神が答えてくださることをもっとたくさん見出すのです。私たちはまた、喜び、平和、愛、知恵、そして私たちの人生に必要なほかのすべてのものを見出すのです。今日、あなたの生活のすべての領域で神を追い求めることを、強くお勧めします。」
祈り:主よ今日あなたを追い求めます。私は、直面しているすべての問題をあなたの前に置きます。どうかあなたが私にどうして欲しいのかを見せてください。私に知恵を与えてください。今日、私が心を尽くしてあなたに仕え、完全な自由を乱すことができますように助けてください。アーメン。
H.K
References
Nicky Gumbel, Questions of Life, (Alpha International, 2011) p.47.
Joyce Meyer, The Everyday Life Bible, (Faithwords, 2014) p.1368.