Tokyo Chapel

2019年3月3日

第62日

霊的な権威

私が彼に初めて出会ったのは、私がまだケンブリッジ大学で学んでいた頃で、週末に学生対象の講演に彼が来た時でした。彼はとても寛大で、私はとても謙遜な方だと感じました。

彼が話すと、実に権威をもって話したのです。彼のメッセージはシンプルでイエスについて人々に話すことに焦点が当てられていました。数年後、彼はホーリー・トリニティー・ブロンプトン教会の主任牧師に就任しました。

この穏やかで、霊的に深みのある人物は私たちの教会(そして他の教会)の成長の鍵となる時期を導いただけではなく、過去40年間以上にわたって英国の最も影響力のある指導者たちの幾人かを訓練したのです。デイビッド・ワトソン、デイビット・マッキネス、サンディー・ミラーそしてジョン・アーヴィンらは皆、この人ジョン・コリンズのもとで副牧師でした。ジョン・コリンズは地位や名声を決して求めることなく、ただひたすらにその生涯を通じて他者に仕えることに徹してきたのです。

彼の権威は彼の地位やこの世的な権力から来たものではありません。むしろ、彼の権威は、彼のイエス・キリストとの関係から来たのです。それ正真正銘の権威です。

現代社会において権威という言葉は古めかしく感じるかも知れません。もちろん、権威は乱用されることもあります。しかしながら、敬虔で、霊的な権威は大いなる祝福の源なのです。


主の声の権威

詩篇29:1-11

私たちの社会には大きな霊的渇望と必要があります。人々は霊的知識と体験を探しています。この詩篇は私たちに「主の声(3)」を指し示しています。ダビデは神の声の偉大な力と主権と権威について述べています(4-5a, 7-9a)。

今日、私たちが、主の声を聞く最高の方法は、聖書の言葉によってです。神の言葉には権威と力と威厳があります。「私たちはひざをかがめる。そして私たちは叫ぶ『栄光!』(9,MSG訳)」ひざをかがめることは、主の声を聞くのに相応しい姿勢です。私は一日を始める時に、ひざまづいて、聖書を読み、神の声を聞くことを好みます。「主よ、今日あなたは何を語られるのですか?」と問うのです。

ダビデは「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光ととを主に帰せよ。(1)」と言って、この詩篇を始めています。すべての権威、権力、強さは神に属しています。しかし、主はそれをご自身だけにとどめておられません。あなたが主の声を聞くなら、主はあなたにご自身の権威、権力、強さを分け与えてくださいます。ダビデは「主は、ご自身の民にをお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。(11)」と言ってこの詩篇を締めくくっています。

私たちが、人生の闘い(内面的にも外面的にも)に直面する時、切に求める必要がある2つのことがあります。私たちには神の「力」と「平和」が必要なのです。

祈り:主よ。あなたの権威、権力、強さを分け与えてくださることを感謝します。今日の闘いにおいて私を強めてください。人生の嵐の真っただ中にあっても平和を与えてください。


神が与えた権威

マルコ11:27-12:12

イエスは神の与えて下さる権威について語り、また行使しました。イエスは主の声を聞き、まさに神の言葉を語りました。これが鍵です。もしあなたが権威をもって語りたかったなら、まず神の前に時間を割き、神に聞くことです。

イエスが権威を持っておられたことは言うまでもありませんが、イエスの反対者達が「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。(11:28)」と尋ねたように、どこからその権威が来たのでしょうか?イエスは質問に対してバプテスマのヨハネを引き合いに出しました。

イエスは彼らにバプテスマのヨハネの権威は「神(天)」からか「人間(地)」からか(30)と尋ねました。彼らは、それが神から来たと言いたくなかった(彼らはヨハネを信じていなかった)ので、質問に答えることができませんでした。答えなかったもう一つの理由は、ヨハネを本当の預言者だと認めていた「群衆を恐れた(32)」からです。

私はかつて、聖霊の超自然的な賜物は使徒の時代に終わったのだと信じる説教者が「ペンテコステ運動が神の働きだと信じますか?」と尋ねられているのを聞いたことがあります。それは、今日の箇所と同じような反応を誘発しました。彼はその質問に答えることができないのです。

「それは神から来たのです。」という答えは、現代の世界にも聖霊の超自然的な賜物は注がれることを認めることになります。それが神から来たということを否定することは、ペンテコステ運動を通して神の力を体験した世界中の6億人を超えるクリスチャンの体験を否定することになります。

イエスへの質問者がバプテスマのヨハネに関するイエスの質問に答えることを断ったので、イエスは、ご自身の権威についての彼らの質問に答えることを断りました。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい(33b)。」

それから、イエスはご自身の権威の出処を啓示する意図をもったたとえを語られました。イエスの反対者たちはイエスのもくろみに気付いたことでしょう。マルコは次のように私たちに告げます。「彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとした…(12:12)」

イエスのたとえは「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、…(1)」という設定でした。このたとえの土台となっているイザヤ書5章1-7節では、神がぶどう園の主人で、ご自身の民(特に指導者)がぶどう園です。イエスのたとえで、遣わされ、殺されてしまうしもべはバプテスマのヨハネを含む神の預言者のことです。そして、イエスはこのたとえの中でご自身を登場させているのです。「その人(神)には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。(マルコ12:6)」

イエスはただ一人の神の子ですから、ただ一つの権威を持っておられることを示しておられます。唯一の愛された子および相続人と最初に送られたしもべたちたちとには、明白な違いがあります。それは驚くべき予型です。イエスは唯一の神の子が殺されようとしているということを布告したのです(7-8)。

それから、イエスは神の民のリーダーシップが新しいリーダーシップ(初代教会の指導者たち)に移って行くことについて説明しました。イエスは彼らの「礎の石」なのです。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。(10,また詩篇118:22)」

唯一の神の子は、神の民の唯一の礎の石として、唯一の権威を持っておられます。このお方に聴きましょう。そして、あなたもまた、このお方の権威から送り出される権威をもって語りましょう。

祈り:主よ。あなたは唯一の神の子であられることを感謝します。あなたは神ご自身の権威をもって語られます。どうか、あなたと親しい関係を保ち、あなたの声を聞き、権威をもってあなたの言葉を語ることができますように。


イエスの権威

レビ9:1-10:20

神の臨在に入るということはどれほど偉大なことでしょう。「ついでモーセとアロンは会見の天幕に入り、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。(9:23-24)」

ナダブとアビフの事件(10:1-2)は、神の臨在を当たり前だと思ってはならないことを教えてくれます。現代人はしばしば、神との関係を持ちたいと願いますが、それは自分のやりたいようにです。しかしながら、あなたが神の臨在に確信をもって、ナダブとアビフが焼き尽くされたというような不安なく入って行くことができるのは、ただイエスによってのみ可能なのです。

神の臨在に接することが出来たのは、旧約聖書においては複雑ないけにえの儀式を通してでした。大祭司が臨在に入るためには、自分自身と民のためにいけにえを捧げました(9:7-8)。なぜなら大祭司とて私たちと同じように弱く罪を持つ人間だからです。彼は民の罪のため、動揺に自分自身の罪のためのいけにえを捧げ続けなければなりませんでした。

イエスは唯一の権威を持っておられます。イエスは罪のない大祭司です。ヘブル人への手紙の作者は、こう言います。「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。(ヘブル7:26-27)」

その結果、イエスを通して、あなたは神のきよい臨在に近づけるのです。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19-22)」

あなたは今日、神の臨在に入って行くことができます。そして、主の声を聞くことが出来、主の強さと平和を受け取ることが出来、そして、神の声を聞いた者として権威をもって語ることができるのです。

祈り:主よ。私はイエスの血によって、至聖所に入っていくことができますことを感謝します。今日、神に近づかせてください。へりくだった心を持って、信仰の確信をもって主の声を聞かせてください。あなたの強さと平和を受け取り、神の声を聞いた者として権威をもって語らせてください。アーメン。

H.K