Tokyo Chapel

2018年2月24日

第55日

あなたが神にささげたものを倍増なさる神

ハッティー・メイ・ワイアットはアメリカのフィラデルフィアにあるグレース・バプテスト・チャーチの近くに住んでいた6歳の女の子です。日曜学校は毎週盛況でぎゅうぎゅう詰めでした。牧師のラッセル・H・コンウェルは、いつか、みんなが入るのに十分な広さをもった建物を持ちたいのだと彼女に話しました。彼女は「そうなるといいわね。いつもぎゅうぎゅう詰めだから、一人で行くのが怖いの。」と言いました。彼は「お金が集まれば、子どもたちみんなが悠々と入ることができる大きな建物を建てることができるんだが・・・。」と言いました。

2年後の1886年、ハッティー・メイ・ワイアットは亡くなりました。ハッティーの葬儀の後で、母親が牧師に小さなバッグを手渡しました。それはハッティーが貯めた57セントのコインで、母親が娘の枕の下から見つけたものでした。そのすぐそばに、彼女の手書きのノートがありました。「もっとたくさんの子たちが教会学校に行けるようにおおきな建物を建てる助けのために。」

牧師は、そのお金をすべてペニー硬貨に替えて、それを売りに出しました。それは250ドルになりました。54セントが戻って来ました。その250ドルもペニー硬貨に替えて、新しく作られた「ワイアット基金協会」によって販売されました。このようにして、57セントが増え続けたのです。

26年後、「57セントの歴史」という題で説教がされ、牧師は57セントの寄付が結果として、5,600人のメンバーを擁する教会となり、何千人もの患者を診察する病院、80,000人の若者が集う大学が建ち、2,000人の伝道者たちが福音を宣べ伝えるようになったのです。これらすべては、ハッティー・メイ・ワイアットがささげた57セントから始まったのです。

何倍にも増え広がるというテーマは聖書から出たものです。足し算によって成し遂げることが出来ないことを、神は掛け算で成してくださいます。私たちは蒔いたものの何倍もを刈り取ります。私たちが主にささげたものは、神によって倍加されるのです。


幾倍もの祝福…そして問題

詩篇25:16-22

イエスは従う者たちに幾倍もの祝福を約束されました。と同時に、イエスは祝福と問題は隣り合わせであることを教えています。イエスは、ご自身に従う者は誰でも百倍を受ける―迫害と共に(マルコ10:30)と言いました。

この詩篇で、ダビデは「私の心の苦しみ大きくなりました(25:17)」「私の敵がどんなに多いかを見てください(19)」と表現しています。ダビデは孤独、「苦悩」、「悩み」、「労苦」について語っています。

神が祝福するところはどこでも、問題と迫害が増し加わります。どのような種類のリーダーシップにも反対はつきものです。責任が大きくなればなるほど、あなたの問題は幾倍も多くなり、あなたへの批判も増し加わります。

ダビデは「私のたましいを守り、私を救いだしてください。(20)」と請い願っています。あなたが攻撃される時には、いつも、「誠実と正しさを保てるように(21)」主を待ち望んで願いましょう。人々が言うことや、考えることに左右されない正しいことを行いましょう。

祈り:主よ。私が反対に遭うとき、私が正しいことをすることができるように助けてください。犠牲を払わなければならなかったり、どのような結果になろうとも。


幾倍もの資源

マルコ7:31-8:13

この箇所に、神は尋常ではない倍加する神の供給を見ます。イエスは弟子たちが差し出した7つのパンとわずかな魚で4000人を満腹させることのお出来になるお方です。

しかも興味深いことに、イエスは奇跡を行っただけでなく、最初に弟子たちを呼び出し、空腹の群衆に対するイエスの思いを弟子たちに共有しました(8:1-3)。主は5000人が満たされたこと(6:30-44)を知っていた弟子たちに、解決方法を考える機会を与えたのです。

「パンはどれぐらいありますか(5)」と問うことで、弟子たちが持っているもので神の御業に参画するように招きました。イエスが奇跡を行い、彼らがイエスに渡した食事を幾倍にも増やしたその時点で、増やされたパンを配給する役割(6)を弟子たちは担いました。イエスはご自身の計画と働きに私たちが加わることを好んでおられるのです。

弟子たちが為したことは、主の奇跡の業に比べると小さなことです。神はとても小さなことの集積を用いて大きなことをすることができます。あなたが神にささげたものはなんでも、神は幾倍にもされるのです。

今日の箇所はイエスの他の奇跡で始まっています。イエスは「耳が聞こえず、口のきけない人(7:32)」を癒しました。イエスは彼のために「深く嘆息して(34)」祈りました。たぶん、これはパウロが「言いようもない深いうめき(ローマ8:26)」と記している祈りです。私たちを通して祈る際の聖霊の葛藤を表現したものです。イエスは男に「エパタ(その意味は「開かれた」)」と言いました(マルコ7:34)。

イエスへの反対が倍増したのは間違いありません。「イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられた(36)」のですが、「彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした(36)」からです。

倍加する奇跡の後で、イエスは群衆を解散させました。そして、イエスは弟子たちの小さなグループに集中なさいました(8:9-10)。群衆の必要、―伝道と癒し― は莫大でした。にもかかわらず、イエスはリーダーたちの小さなグループに時間を割くことを優先しました。

倍加する奇跡やその他のすべての奇跡がありましたが、皆が信じたわけではありません。「パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた(11)」のです。そして「イエスをためそうと(11)」しました。彼らはイエスの権威の外面的な証拠を求めたのです。

彼らは霊的に盲目でした。そして神が彼らに与えたしるしを認識することができませんでした。(4,000人の人々をわずかなパンと魚で満腹させることがいかに明らかな「しるし」とは思わなかったのでしょうか!)彼らは自分たち自身の選んだしるしを求めたのです。イエスはそれを拒みました。それは今日も同じです。奇跡が信仰にいつも導くわけではありません。人々はしばしば奇跡に取り合いません。その他の説明があるべきだと考えるからです。

祈り:主よ。感謝します。あなたは、私たちがあなたにささげるとても小さなものからたくさんのものを為すことがお出来になります。あなたは倍増してくださるお方です。主よ。今日、私の生活を、私の時間を、そして私が持てるすべてをあなたにおささげします。


幾倍もの心ある人たち

出エジプト35:1-35:38

祈り、仕え、捧げてきた小さな会衆の人々でさえ、驚くような結果を出すことができるということを何年にもわたって私は見てきました。

神の民は幕屋を建てるために多くの課題が与えられました。彼らは自ら志願して幾倍もの結果を成し遂げたのです。モーセは「全会衆を集めて(35:1)」その働きへと招いたのです(35:1)。それは今日の教会が必要としている姿です。

  1. すべての人の祈り
    「民は、みな、…伏し拝んだ。(33:10)」と昨日の箇所にあったように、すべての民は一致して神に祈り、礼拝しました。安息日(2-3)は単なる休日ではありません。「主の聖なる全き休みの安息(2)」であり、主との交わり、すなわち、祈りと礼拝です。共同体全体が祈りました。
  2. すべての人のささげ物
    彼らは「心から進んでささげる者(5)」でした。金、銀、青銅、など「主への奉納物を持って(5)」来たのです。

    その務めは一部の気前良い人によってだけなされるものではありません。「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。すべて心から進んでささげる男女は、…みな、そうした。(21-22)」ハッティー・メイ・ワイアットのように、皆がそれぞれ自分の「57セント」を持ち寄ったのです。

    もしあなたの共同体が、神があなたにせよと召しておられることをすべて成し遂げようとするなら、みながささげる必要があります。それは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく」です。(2コリント8-9章)

    すべての人々がささげることができるなら、それは「あり余る(出エジプト36:5)」ほどになります。「それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。『男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。』こうして、民は持って来ることをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。(6-7)」

  3. すべての人の奉仕
    すべての人が奉仕につきました。この箇所には「全会衆」「みな」という言葉が頻繁に出てきます。それはすべて自発的なものでした。「あなたがたのうちの心に知恵のある者は、みな来て、主が命じられたものをすべて造らなければならない。(35:10)」たとえば、「アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。(24)」「心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、…持って来た。(25)」

    そして、ベツァルエルやオホリアブのような芸術に秀でた者が鍵の役割を果たしました。彼らは、意匠を凝らした作品を作り、同じように造ることを教えるために霊に満たされました。彼らは自分たちの技術と働きを共有したのです。「ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のすべての仕事をすることのできる知恵と英知を主に与えられた、心に知恵のある者はみな、主が命じられたすべてのことを成し遂げなければならない。(36:1)」

これらのことはすべて自発的です。神の民は、神に「感動した者(35:21,26)」でした。その務めは「その心が目覚めた者たちすべて、その霊が自由に応答できた者たちすべて(21,MSG訳)」によってなされました。もし、私たちが神が共同体として私たちに召しておられることを成し遂げるためには、自発的に願い出る人々が倍増する必要があるのです。

神への熱情は伝染的です。ジョイス・マイヤーは次のように記しています。「ビジョンをもっている人とあなたが協同するなら、あなたもすぐにビジョンを持つようになります。しかし、何もする意欲のない、不平ばかり口にする、ソファにすわってドーナツを頬張りながら、テレビドラマを見て人生を無意味に過ごす人々とともにいるなら、すぐにあなたも同じようになります。」

一人ひとりが目覚めて祈り、仕え、ささげましょう。あなたの57セントを、あなたが求め想像する以上に神がどれほど倍増させくださるかに驚くことでしょう。

祈り:主よ。すべての人々が祈りと奉仕とささげものに加わることができることを感謝します。あなたは私たちが求め、また想像する以上にそれらを倍増してくださいますように。アーメン。

H.K

References

Hattie May Wiatt illustration from Sermon by Russell H Conwell ‘The History of Fifty-Seven Cents’, Sunday morning, December 1, 1912.

Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013), p.147