2019年5月26日
5月26日
主の御名に力あり
当時33歳のバーバラ・クラップハムはロンドンに住み始めました。彼女は教会を探そうと思い立ちました。ある日曜日の朝、彼女はホーリー・トリニティー・ブロンプトン教会(HTB)にやってきました。にこやかに接待係の女性が玄関先で彼女を迎え、名前を尋ねました。バーバラはその笑顔に惹かれて、次の週もこの教会に訪れました。日曜日、同じ女性が立っていて、彼女が入ってくると、「おはよう。バーバラ」と言いました。
その女性が玄関で名前を覚えてくれていたので、彼女は毎週ここに来ることを決心しました。それは1947年の出来事です。彼女が亡くなった100歳の誕生日を間もなく祝おうとしていた少し前のことですが、それまで彼女はほとんど毎週日曜日に教会に通い続けました。何年にもわたって、教会の経済に大いに貢献したことを含めて、彼女はHTBの活動に絶大なインパクトをもたらしました。教会の玄関口に立っていた若い女性は、バーバラの名前を覚えていたことが、これほどの大きな影響をもたらすことを果たして想像していただろうかと思います。
名前には大いなる力があります。名前は影響力があるのです。それは今日も本当です。しかし、私たちが聖書の中に読んでいるヘブル的な文化においてはもっとそうです。ヘブルにおいて、名前は単なるラベルではありません。主の名は、主がどのようなお方であるかを啓示しているのです。
主の御名を賛美する
詩篇68:1-6
ダビデは勧めています。「神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。(4)」
神はその名によってご自身を表しておられます。神はモーセがエジプトで奴隷状態にある神の民を解放するために遣わされる際に「わたしはある(I AM WHO I AM)」という名を告げました(出エジプト3:14)。同じように神はこの詩篇の中で、この名を持つ神が特に社会の中で隅に追いやられている者たちに関心を寄せておられることを私たちは理解します。
神は「みなしごの父、やもめのさばき人(詩篇68:5)」で「孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出す(6a)」お方です。「神はホームレスのために家を建てられた(6a,MSG訳)」「捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。(6b)」
主の御名に栄光を帰する一つの方法は、社会的に弱い人々(やもめ、孤児、孤独な人、捕らわれ人)を愛しお世話することです。
祈り:主よ。私はあなたのきよい御名を賛美します。私が社会の片隅に追いやられている人々を愛し仕えることよって、私の人生を通してあなたの名に栄光を帰することができますように。
イエスの御名の力
ヨハネ16:5-17:5
あなたはイエスの御名にどれほど力があるかを知っていますか?イエスは弟子たちから去っていかれるとき、彼らに言いました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。…その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。(16:23b-26a)」
私たちは自分の名によっては何も神に願い求めることは何も出来ませんが、イエスの名によって神に祈ることができるのです。私たち自身には何も願う権利がありません。しかし、十字架と復活を果たしたイエスを通して、あなたは主の御名によって神に近づくことができるようになったのです。
イエスの名によって祈ることは、あなた自身をイエスに添わせることです。あなたがそうするとき、あなたの祈りは、あなたの人生についての神のみこころと調和し、あなたは、主のみこころが為されますようにと祈ることができるのです。それはあなた自身では不可能です。あなたには聖霊が必要です。
イエスは、弟子たちに、ご自身が去っていくことは彼らにとって良いことだと告げました。「私が去っていくことがなければ、助言者(「友」,MSG訳)はあなたに来ないからです。しかし、もし私が行けば、わたしは彼をあなたに送ります。(7,NIV訳)」当時、イエスはひと時に一か所にしかいることが出来ませんでした。しかし、主の御霊によって、私たちが行くところどこにでも、いつでも私たちの友として、また助け手として、あなたにもわたしにもともにいることができるのです。
聖霊は世に対して罪を明らかになさいます。(なぜなら「彼らがわたし[イエス]を信じないからです。」,9)そして、「あなたがたをすべての真理に導き入れます。(13a)」私たちがコースから外れたり、間違った方向に向くときはいつも、聖霊は私たちに知らせてくださいます。私たちが自分の霊に感じて何かをすることは正しくありません。
聖霊は私たちを決して非難しません(ローマ8:1)。聖霊は私たちに悔い改めを示し、正しい方向に向かっていくことができるのです。聖霊はあなたや私を導き、支え、力づけます。そして、もっとイエスに似た者に変えていってくださるのです。
聖霊はあなたをすべての真理に導き入れます。真理は「真理の御霊(ヨハネ16:13a)」によって啓示されるのです。とりわけ、あなたについての真理を啓示してくださいます。真理はあなたを自由にします。
イエスはあなたに三つのことを約束しています。
- 嘆きと悲しみの真っただ中にある「喜び」
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(20)」正義は勝ちます。悪魔は最後の決定権を持ってはいません。イエスが死からよみがえったとき、イエスの弟子たちは、母親が子を産んだ時に、それまでの産みの苦しみを忘れてしまうように、彼らを覆っていた悲しみを完全に消し去ってしまう大いなる喜びがありました(21-22)。 - 憎悪の真っただ中にある「愛」
あなたは愛されています。たとえ「世があなたがたを憎む(15:18)」としてもです。イエスはあなたに告げます。「それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。(16:27)」真理の御霊はあなたのための父のすべての愛を啓示するのです。 - 問題の真っただ中にある「希望」
イエスは問題のない人生をあなたに約束してはいません。実に「あなたがたは、世にあっては患難があります。(33)」と、この世であなたが問題を経験することについて語っています。しかし、イエスはこう約束しています。「あなたがたがわたしにあって平安を持つ(33)」と。なぜなら、イエスは「すでに世に勝った(33)」からです。「わたしはあなたを傷つける力からそれを奪還し、あなたのためにそれを征服した(33,AMP訳)」
あなたが聖霊から受け取ることができる最高に重要な贈り物は神との関係です。この祈りの中で、イエスは「永遠のいのち」の核心と定義に光を当てています。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(17:3)」
永遠のいのちにまつわるイエスの祈りのこの驚くべき描写は、神の名をあがめることになるでしょう。イエスがこの地上におられたときになさったすべてのことは、そして、イエスを通して持つ、私たちと父なる神との関係は、すべて究極的には神の御名の栄光のためです。
祈り:主よ。私がイエスの御名によって祈ることができるという大きな特権を思うと、あまりの感謝に言葉を失ってしまいます。今日、私は祈ります。…あなたの御名によって。
主の御名にある守り
1サムエル17:38-18:30
ダビデは一番の防御はサウルのよろいではなく、主の御名であることを認識していました(17:45)。
最初は、ダビデはサウルのよろいを身に着けてゴリアテに対戦しようと試みました。それでダビデは気づきました。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。(39)」それでよろいを脱ぎ捨てて、自分のやり方でいくことに心定めました。人生におけるそのようなレッスンがあります。他人のよろいを身に着けて戦ってもうまくいきません。もしあたかも他の誰かのように振舞ってみても、それは人工的で不自然にしか見えないのです。
信憑性のある大きな力があります。オスカー・ワイルドは言いました。「自分らしくあれ。ほかの人の席はすでに埋まっているのだから」あなたがあなたらしくある時があなたにとって最も効果的なのです。シエナの聖カタリナは言いました。「神があなたをお創りになれたようにありなさい。そうすれはこの世界をあっと言わせるようになります。」
ダビデは神の名に思いを留め、立証しました(45)。ダビデはゴリアテに言いました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(45)」ダビデは人間の努力の限界を知っていました(47)。ダビデは、その御名だけが地上最強の相手に立ち向かうのに有効である神に信頼を置きました(46)。ダビデは莫大な反対に面する中で主の御名に信頼することを整えられたのです。
あなたは大きな反対に直面するかもしれません。あなたが生きる世界はあまりにも強大で気が遠くなるかもしれません。それとは対照的にあなたは弱く哀れに感じるかもしれません。しかし、神の御名によって出ていきなさい。自分の限界を認識し、それでも神の名の確かさを立証するために神に信頼を置いて…。なぜなら、主はダビデとともにおられたので、彼がしたことすべてが成功したのです。(18:5,12,14)
ダビデの成功はサウルの怒りと嫉妬に火をつけました(8-9)。ジョイス・マイヤーはこう指摘しています。「神は私たちの粗っぽい角を滑らかにする紙やすりのような人物を常に私たちの周りに配置するものです。私たちがもう一段階進む前にはこのようなテストが行われるのです。もしあなたがリードしたいのなら、まず理想的とは思えない環境で最高の奉仕をなし、知恵深く振舞うことを学ばなければなりません。これは神によって大きく用いられるための準備なのです。」
神はダビデにさらなる成功を与えました。興味深いことに、ダビデは神の御名に思いを注いだので、「彼の名は非常に尊ばれた(30)」のです。しかし、それは彼の目的でも関心でもありませんでした。また彼の人生の焦点でもありませんでした。
祈り:主よ。この国の教会の中でイエスの名をあがめる人々で一杯になりますように。私たちがすることすべてがイエスの名が高められ栄光を帰することに焦点が当てられていくように、わたしは祈ります。アーメン。
H.K
References
Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) p.451