Tokyo Chapel

2019年2月25日

第56日

あなたの人生を最大限に活用する方法

「人々はしばしば私にマザー・テレサはどんな人でしたかと尋ねます。」とシェーン・クレイボーンは著書「Irresistible Revolution(抵抗しえない革命)」の中で語っています。「時々、彼女には暗闇に後光が差していたり、頭の上に光の輪があったりしていると思っている人がいるけど、彼女は背の低い、しわくちゃで、それでいて気高い、ちょっと怒りっぽい、でも美しく、賢明な年取ったおばあちゃんです。しかし、私は決して忘れることができないことが一つあります。彼女の足です。彼女の足は形が崩れていました。

毎朝、私は足をじっと見つめていました。私は彼女がハンセン病に罹患したのではないかと思いました。ある日、シスターが説明してくれました。『彼女の足が変形しているのは、私たちは皆、寄付してもらった靴をはいているんだけれど、マザーは悪い靴を他の人に押しつけたくなかったので、靴の山から悪いのを見つけては自分のにしたの。それを何年も続けているうちにマザーの足は変形したのよ。』彼女の足が変形したのは。何年もの彼女の隣人への愛なのです。」

最も尊敬できる生涯を送った人物は誰ですかと尋ねると、しばしば「マザー・テレサ」という答えが返ってきます。彼女は人生を最大限に生かしました。それは逆説的です。なぜなら、彼女の生涯は、自分の十字架を負い、イエスに従うという自分を捨てる生き方だったからです。

人生は特別な素晴らしい贈り物です。聖書の中で、私たちはこの贈り物を無駄にせず、最大限に生かすようにと常に勧められています。


自己鍛錬を極める

箴言6:1-11

箴言は、どのようにあなたの人生を最大限にいかすのか、そして、どのように様々な罠に陥ることによって人生を無駄にすることをさけるのかという生きるための実践的な知恵を与えてくれます。今日の箇所にはその2つの実例が記されています。

  1. あなたの経済を管理する。
    自己鍛錬を要求される領域の一つは私たちの経済です。経済的な罠や落とし穴はいつもたくさんあります。―支払いきれない借金を抱えたり、現実性のない資金計画を立てたり。箴言の作者は、もしあなたが経済的なごたごたに陥ったら(2-5)、あなたはできる限りそのようなそこから抜け出すことに全力を尽くすべきだと戒めています。「寸暇を惜しんではならない(3,MSG訳)」

    私たちは謙虚であるべきです(3b)。きちんと自分の言い分を述べなければなりません(3c)。これらの落とし穴から自由になるために全力を尽くすべきです(5)。もし、私たちが自分の経済問題を解決できなければ、それは私たちの人生や私たちの家族にとても有害な結果をもたらします。
  2. 時間を正しく管理する。
    自分を鍛えることを怠ったために人生を無駄にしてしまうことがあります。説明責任がないと人はいともたやすく怠け者になってしまいます。その結果悲惨なことになってしまうのです(9-11)。私たちは、誰も教えてはくれない、自らを律するということを蟻から学ぶことができます。「蟻には首領もつかさも支配者も(7)」いません。そうであっても、蟻はとても勤勉に働きます。「夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。(8)」

    もちろん、十分な睡眠をとることは大切です。私たちの体は休息を必要とします。しかし、何も生み出さない事柄に時間を取られて、持てるタラントを無駄にしてしまうことに気をつけましょう。

祈り:主よ。私が自分の経済と時間を賢く扱うことができるように知恵を与えてください。


自分のいのちを与える

マルコ8:14-9:1

イエスはパリサイ人とヘロデの「パン種」に気をつけるように警告しました(8:15)。パン種とはイーストのことで人間の内にある悪い性癖の比喩です。それは一見ほんの小さなもののように見えるのです。しかし、人格すべてを駄目にしてしまいます。イエスのことばを弟子たちは見える世界の次元でとらえたために霊的な意味がわからなかったのです。

見える世界そのものが悪いわけではありません。盲人はイエスに触れたかったのです(22)。イエスがなさったことは、実に見える世界の事柄です。―イエスは男の両目につばきをつけ、二度、両手を彼に当てました(23-25)。彼が完全に癒されるまでにイエスは二度祈られました。これは、私たちが病気の人のために一度祈るだけではなく祈り続けることを励まします。

とうとう弟子たちはイエスが何者であるかを理解しました。「あなたはキリストです。(29)」「クリストス(ギリシャ語でキリスト)」の意味は「油注がれた者、メシア」です。イエスがおられた当時、この言葉は特に新しいダビデのような王に対する待望と関連して用いられました。しかしながら、旧約聖書では油注がれた者とは王、祭司、預言者のことです。イエスはそれらすべてを兼ね備えて成就されました。イエスこそ、その王であり、その偉大な大祭司であり、その預言者です。

しかし、この「メシア」という呼称は適切とは言えません。イエスは自らを「人の子(31)」と呼びました。「人の子」はさらに主権を表しており、それゆえ、もっと適切です。それには苦難の発想が含まれています(ダニエル7:21)。「人の子」には自らを人間を代表して苦難に向かう姿が表わされているのです。

それゆえにイエスは十字架について語り始めました(31)。イエスがどのようなお方かが分かるまで十字架は分かりません。イエスの教えは、ペテロがイエスをわきに連れ、いさめはじめたほど(32)、とても逆説的で、直観に反したものであり、驚くべきものです。

弟子たちの目が段々と開かれていくという映像的な比喩として、盲人の男の癒しがここに並置されているのです。まず、ペテロの目がイエスがどなたであるのかということについて開かれました(29)。しかしながら、まだ彼の理解は半分だけです。ペテロはイエスの使命については見えていませんでした(31-32)。ペテロは「見え」ましたが、しかし完全には「分かって」いなかったのです。

イエスは、私たちの人生を最大限に生かす内容を含む尋常ではない逆説を弟子たちに説明しなければなりません。それをイエスは卓越した例で示されたのです。イエスは、もしあなたが、あなたの人生を最大限に生かしたいなら、あなたはそれを捨て去らなければならないと言われました。あなたは、あなたの人生をイエスとその福音に仕えるために捨てなければなりません。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(35)」

対照的に、イエスは「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。(36)」と言いました。俳優のジム・ケリーは言いました。「私はすべての人が裕福になり有名になるべきだと思う。そして、夢が全部叶ったら、それが答えではなかったということに気づくはずだ。」

たとえ、世界最高の億万長者になったとしても、この世の分け前しか得ることができません。イエスは、もし私たちがそのような方向に自分の人生を合わせ、もし大成功し、全世界を手に入れたとしても、私たちの人生を台無しに私たちの魂を代償として失うこともあるのだと警告しているのです(36)。イエスは、いのちを見出す方法は、自分自身を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従うことだと言っているのです(34)。

「自分を捨て」という言葉は「あなた自身に対して『ノー』と言う」ことを意味します。クリスチャンの日々の生活は、日々自分に対して「ノー」ということのチャレンジがあります。この世は、生きる方法とは自分に対して「ノー」と言わないことだと考えます。イエスはその反対が真理だと言ったのです。いのちを見出す方法はあなた自身を捨てること、そして、十字架を負い、イエスに従うことです。

あなたは愛することに召されています。あなたは神のためにそして他の人々のために生きる存在なのです。そして、あなたが自分自身を捨てるなら、神はあなたのいのちを世話してくださるのです。

イエスの教えは過激で革新的です。私たちがそれが実際にどのようになるかを見るまでは、確かに私たちが期待することの反対です。自分の満足を追及する人は、自分の人生を幻滅と不満足で終えることになります。イエスの教えに従う者はすべてに満たされた人生を見出すのです。

祈り:主よ。あなたのみことばはチャレンジに満ちています。日々、小さなことにも大きなことにも自分を捨て、十字架を負い、あなたに従うことができますように。私たちは自分のいのちをあなたにゆだねるとき、すべてが満たされるのを見ることができることを感謝します。


職場で神に仕える

出エジプト37:1-38:31

心を込めて神に従うために仕事を辞める必要はありません。ベツァルエルのように自分の職業を用いて神に仕える人々がいるのを私たちは見ます。

神は職場でもご自身の霊で人々を満たします。「彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。(31:3-5)」

ベツァルエルは彫刻家でした。彼は幕屋を作るために神に選ばれました(37:1,31:1-5)。彼は神の召しに応えて幕屋の為の品々を造っていきました(38:22)。そして、一人だけではなくオホリアブと共にチームで労しました(23)。そして神のための偉業を成し遂げたのです。その偉業を成し遂げた鍵は神の霊に満たされることです(31:3、35:31)。

神の霊に満たされることなく、才能ある音楽家、作家、芸術家になることは可能です。しかし、神の霊が人々を満たすとき、彼らの働きの結果は新しい次元に開かれます。大きな霊的インパクトをもたらすのです。特に才能において傑出した音楽家や芸術家でなくてもそのことが起こり得ます。心が触れられ、人生が変えられるのです。これがベツァルエルに起こったに違いありません。

祈り:主よ。心をこめてあなたに仕えるすべての人のゆえに感謝します。彼らは才能を用いて、保健衛生、教育、ビジネス、商売、法律、金融…あらゆる職場であなたに仕えることができます。私たちが神の霊に満たされますように。ベツァルエルのように、あなたが私たちに命ずるすべてを行わせてください。私の人生を最大限に生かすことができますように。アーメン。

H.K

References

Shane Claiborne, Irresistible Revolution, (Zondervan, 2006) p.121