Tokyo Chapel

2018年2月21日

第52日

共により良く

ニッキー・ガンベルは視覚教材を使うのがあまり得意ではありません。一方、ニッキー・ガンベルの親友であるニッキー・リーはとても実用的な才能に長けており、視覚教材をよく用います。(ニッキー・リーは妻のシラとともにマリッジ・コースや子育てコースなどの先駆者です。)

ニッキー・リーが結婚について話をするときに、伝道者の書4章の箇所を描くのに視覚教材を時々用います。そこには「ふたりはひとりよりもまさっている。…ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(9,12)」と記されています。

結婚の描きとして、ニッキー・リーは二本の色違いのウールの糸を撚り合わせたものを手に取ります。二本にすれば一本よりは強いですが、それでも簡単に切ることができます。それで、彼は三本目の糸として透明に近い釣り糸を取ります。この三本目をより合わせるなら、ほとんど目には見えませんが二本の糸を切ることはほとんど不可能です。(一度、私もこの描きに挑戦したのですが、どうしてだったかはあまり覚えていませんが、大失敗でした!)

彼が描きだしたポイントは明白です。それは伝道者の書の箇所をうまく表現しています。友情や結婚は素晴らしい賜物ですが、友情や結婚の中心に神を置くなら、強力な目には見えない糸を撚り合わせることになるのです。

今日の箇所に、私たちは他の人々や神との強い関係の大切さを見ます。結婚、宣教、奉仕において、一緒であることは一人でいるよりもっと強いことを見ます。


結婚:二人が一つとなる

箴言5:15-23

これは祝福(5:18a)、喜び(18b)、愛(19a)、恵み(19a)、満足(19b)、そしてロマンス(19c)の泉としての素晴らしい結婚生活の描きです。

二人が一つとされる(創世記2:24)という結婚の描写は美しいものです。その美しさは「排他性」にあります。水ため、泉、井戸というモチーフは肉体的合一の喜びを暗示するものです。その喜びは夫婦に限定されるものであることを繰り返し強調しています(箴言5:15-18)。

夫と妻との間にある情緒的、肉体的な愛の偉大さ(「尽きることのない親密さ」19,MSG訳)は「見境ない相手との戯れ」の「安っぽいスリル(20 MSG訳)」と比較されています。

不倫に対して作者がそれほど強く反対する理由がここにあります。「人の道は主の目の前にあり、…心を配っておられる。(21)」のです。不倫に導く道は「悪者」「咎」「罪」「愚かさ」そして「に導きます(22-23)。私たちは新約聖書の中で、ヘロデの不倫がバプテスマのヨハネを殺すことに導いたことにこのような例を見ます(マルコ6:14-29)。

「人の道は主の目の前にあり(箴言5:21)」という事実は不倫に対して警鐘を鳴らし、また第三の糸として、「主」を結婚生活に据えることから来る力を心に留めさせます。

神の私たちへの愛は、私たちの伴侶をどのように愛さなければならないかという中心的な原則へと導く最高の例です。

祈り:主よ。第三の糸であるイエスの臨在が結婚生活にもたらす違いのゆえに感謝します。一人よりも一緒の方がよいことを、そして第三の糸があれば、簡単には壊れないことを感謝します。


宣教:二人ずつ

マルコ6:6b-29

結婚だけが孤独に対する答えではありません。結婚は大きな祝福ですが、結婚しなければコミュニティーを知ることができなかったり、完全ではなかったりするわけではないことをここで覚えておくべきです。イエスは結婚していませんでしたが、この地上を歩んだ人の中で最も完全な人間でした。イエスは全人的なもう一つのモデルです。

イエスは行き巡って「doing the stuff(ジョン・ウィンバーが用いた風変りな言い方)」つまり、神の国の超自然的な働きを続けました。そして、イエスは弟子たちにもそのように遣わしました。彼らは出て行って、宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒しました(6:12-13)。

彼らは「ふたりずつ(7)」遣わされたことは重要です。宣教の業は、もしあなた自身でするならば、非常に孤独になり得ます。二人で一緒に行くことの方がもっと良いのです。

一緒に行き、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人に油を注いで癒し、結果として癒されるのを見ることは、大きな楽しみであり、深い満足を与えます(13)。

「彼らは、人生を本質的に変えることができる切迫した喜びをもって説教した。あちらこちらで彼らは悪霊を封じ込め、病人に健康をもたらし、体に油を注ぎ、霊を癒した。(13-14,MSG訳)」

彼らは一緒にしました。弟子たちとは対照的に、バプテスマのヨハネは一人、牢に入れられていました。私たちはどんな反対にもくじけずに正しさにとどまる勇気の著しい例を見ます。彼はヘロデにこう言いました。「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。(18)」彼は、強烈な大きな怒りを何度も買うことためらうことがありませんでした。

ヘロデはヨハネから聴くことは好きでした(20)。彼はそれはいい説教だと感じていました。しかし、ヘロデの生活の中にはやめることが出来ないものがありました。それはヘロデヤとの不倫の関係でした。それは彼を道徳的に弱めました。そして、神との関係を楽しむことから彼を遠ざけました。

ヘロデは、イエスとピラトのように、バプテスマのヨハネを死なせる命令を出したくはありませんでした。しかし、面目を失いたくなかったので、ヘロデは愚かな命令を出し、バプテスマのヨハネを死刑にさせたのです。

バプテスマのヨハネには弟子たちがいましたが(ヨハネ1:35)、彼は収監されており、一人で死刑に処せられなければなりませんでした。イエスは弟子たちを「二人ずつ」遣わしました。

しおれることなく働く(Working Without Wilting)」の著者、ジェイゴ・ウェインは、ロンドンで働いている人々の週日の牧会について語っています。自分の職場からやって来る人たちが、毎日の仕事のプレッシャーと葛藤し、孤立したクリスチャンが一般的に弱く見えると彼は言っています。

一方で、クリスチャンの同僚を見つけた人や二人やそれ以上のグループでの礼拝に参加した人がほとんどの場合、楽しく輝いているのを見出しました。

ジェイゴ・ウェインは「もしクリスチャンが、学校でも、家庭でも、職場でも日々の環境の中で孤立しているなら、神に主にある兄弟姉妹を送ってくださるように祈るのは良い事です。そのような人が一緒にいるだけで、あなたの生活の場所が主に仕え、イエスを伝える場であるという励ましを受けることができるから。」と記しました。

伝道の書の作者が「ふたりはひとりよりもまさっている。…どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。…三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者の書4:9-12)」というように、この節は、友情や結婚の一致の大切さを表す箇所としてしばしば用いられますが、もともとの文脈では、実は友情についてなのです。

祈り:主よ。友情のためにありがとうございます。あなたが、私たちだけで行くようには送りませんでした。あなたが二人ずつ送られたことを感謝します。私たちはまた、第三の撚り糸を知っています。あなたは言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:19-20)」


奉仕:二頭の雄羊

出エジプト29:1-30:38

この箇所で私たちが読む詳細な儀式は、聖なる神に近づくことのできるように事細かな配慮が強調されています。それは、祭司の栄光、美しさ、きよさを与える外面的な装飾です。新約聖書においては、内面の美しさやきよさを導く衣は、あなたの心のうちに居られる神の霊から来るのです。

これらの旧約聖書の儀式において、すべてのものは倍でなければなりません。二頭の雄羊(29:1,3)がささげられ、二つの金環(30:4)が作られ、最も重要なことは、贖罪のために一歳の若い雄羊二頭(29:38)がささげられたことです。器具や犠牲が二つであることは神の偉大さのしるしです。それらは、どんな動物の犠牲や儀式でも本当に神に私たちを取り運ぶことには不適切であることを示しています。二つは一つよりも良いのですが、しかし、それでもまだ十分ではありません。

ヘブル人への手紙の作者は、私たちに、これらすべての規則は廃止されたと告げています。「一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されました(ヘブル7:18)」二頭の雄羊の代わりに、一頭の完全な小羊が私たちのためにささげられました。それがイエスです。「キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(27)私たちはもはや何度もいけにえをささげる必要はなくなったのです。

贖いは必要です(出エジプト29:33,37 30:10,16)そして、「贖罪のための、罪のためのいけにえの血(20:10)」を求められます。

イエスは私たちのためにご自身の血を注がれました。パウロはイエスの十字架の死を「なだめの供え物(ローマ3:25)」と書き記しました。

祭司は贖いの血があって、祭壇に近づいて「務め」をすることができました(出エジプト30:20)。「務め」とは神への奉仕を意味します。私たちも同様にイエスの血があって、初めて奉仕(神への奉仕と他者への奉仕)をすることができるのです。

祈り:イエス様。感謝します。あなたは完全な小羊であり、私の罪のためにただ一度いけにえとなってくださいました。もはや何度もいけにえをささげる必要がなくなりました。賛美のことばにもあるように私は「解放され、癒され、回復され、赦された」者です。アーメン。

H.K

References

Jago Wynne, Working Without Wilting, (Inter-varsity Press, 2009)