Tokyo Chapel

2019年8月24日

第236日

勝利の生活

もちろん、それがどこにあるのか彼は知らなかった。85歳の彼は山のように多くの著作を残してきた。私は彼が正確に彼の著書の中にどこにあるかを告げてもらえるかどうかを尋ねていた。そうすれば私はその本を探して引用を見つけることができたであろう。彼は全く分からないけれど、いずれにせよ引用することを承諾してくれると彼は私に告げた。それ以来、私は何度も何度も彼の引用を用いてきた。なぜなら、それはレスリー・ニュービギン主教が私たちのイエスと新約聖書の理解のための極めて重要な洞察を要約したと思えるからだ。

「復活は敗北の裏返しではなく、勝利の顕れである。」

十字架は敗北ではありません。むしろ、十字架と復活は共に、この世界の歴史の中に為された偉大な勝利です。それは、私たち自身の人生、私たちの社会、そしてこの世界の将来のための莫大な重要性を持つ勝利です。

「勝利」という概念には帝国主義やプライドという匂いがします。もちろん、勝利主義(特定の宗教的・政治的な教義や信条を絶対視すること。)は避けなければなりません。しかしながら、「勝利」は聖書の中で否定的な言葉ではありません。それは新約聖書においてもそうです。

勝利の正しい理解の鍵は、「私たちの主イエス・キリストを通して 」もたらされる賜物としてそれを見るということです(1コリント15:57)。これは、適切な応答はプライドではなく感謝であることを意味します。


あなたの心にある勝利

箴言20:25-21:4

最大の闘いは私たちの思いや考えの中で行われます。そここそ、勝利が勝ち取られ、あるいは損なわれる場所です。神はあなたの行動や言葉だけに関心を持っているのではなく、むしろあなたの内面に目を向けておられます。神は私たちを「内側も外側も(20:27,MSG訳)」ご覧になられ、試されます。神は「私たちの動機を試す(21:2,MSG訳)。」

「神の前に清く生きることと私たちの隣人との正義は、宗教的な演技のためではなく神のためのものです(3,MSG訳)。」「人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。(20:27)」私はいつも詩篇の作者が祈るように祈ることに努めます。「神よ。私を探り、…私の中に邪悪な道があるかどうかを見てください(詩篇139:23-24,RSV訳)。」

私はまた他の人々のためにこれを祈ります。箴言20:27は祈りのミニストリーにおいて、とても役に立つ聖句です。もし誰かが、何かと格闘していて、明確に突き止めることができないと感じていると、私は神の霊に、取り扱うべき必要のある罪が何かあれば彼らの心に啓示して探ってくださるようにお願いするのです。

神は漠然とした罪悪感を決して与えません。もし聖霊からの罪悪感であるなら、神は取り扱うべき特定の罪を啓示してくださるでしょう。何か間違っていたことに気づいたなら、悔い改めはイエスを通しての赦しに導きます。

ですから、私は「主のともしび」が再び照らし、取り扱うべき必要がある他のものがあるかどうかを啓示してくださるように願い求めます。なぜなら、悔い改めとイエス・キリストにある信仰の場であるイエスの十字架、その罪に対する勝利のゆえに、もはや誰も罪に定められることはないのです。

王(あるいは私たちは「リーダー」と呼ぶかもしれません)のための勝利は「愛と誠実」を通してもたらされるのです。「愛と真実は良きリーダーを形作る。健全なリーダーシップは愛の完全性に見出される(28,MSG訳)。」

リーダーの「は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(21:1)」神はリーダーの心を究極的に制御します。私はこの約束を私の人生の多くの時に信頼してきました。…就職の面接試験について祈る時、地方議会、裁判官、政府と交渉する時。感謝なことに、リーダーの心は主の手にあります。そして、神はご自身のみこころのままに方向づけられます。

心はとても大切です。「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。(2-3)」

勝利は神からの賜物なので、それはプライドに導くべきではありません。「高ぶる目とおごる心 ― 悪者のともしびは罪である。(4)」

祈り:主よ。今日、あなたは私の心をご自身のともしびで照らしてくださるように祈ります。そして私の内面を探ってください。私たちの主イエス・キリストを通して与えられる赦し、自由、勝利という賜物を感謝します。


死に打ち勝つ勝利

1コリント15:50-16:4

多くの人々は死が終わりだと考えます。彼らはいつも死が最後の言葉だと信じています。その最後の死が勝つのです。

「そうではない」と使徒パウロは宣言します。「死は勝利にのまれた(15:54)」と。パウロは死をあざけって言います。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。(55)」

イエスは、十字架と復活を通して、死、罪責そして死を打ち負かしたのです。その結果、やがてある日、あなたは「不滅」のそして「不死」へとよみがえるのです(53-54)。

私たちの主イエス・キリストを通して与えられるこの驚くべき勝利の賜物に対してあなたが成し得る3つの応答があります。

  1. 感謝をささげる
    「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(55-57)」

    伝道者デイビッド・ワトソンは、自分の娘が庭で一匹のミツバチに追いかけられ、悲鳴を聞きつけて彼が駆け付けた時の話を語ります。彼は自分の腕を回して彼女を覆いました。すると彼女はじっと身を固くしました。彼は彼女を行かせて、こう言いました。「もう怖がることはないよ。あのハチの針は私を刺したから。」

    十字架の上で、イエスはまるで私たちの腕を伸ばして包んでくださっているようです。そして私たちのために死のとげを受けてくださったのです。私たちはやがて死にます(もしキリストが再臨するのが先でなければ)。しかし、キリストに頼る者はすべて、十字架と復活によって「死のとげ」は取り除けられました。そして、デイビッド・ワトソンが娘に言ったように「ミツバチは二度と刺すことはできない。」のです。「神に感謝!(57,MSG訳)」
  2. あなた自身をささげる
    あなたは、あなたが神に仕えていることが、本当はどうでもいいんじゃないだろうかと思ったりすることが時々ありませんか?あなたは、それが皆、時間と労力の無駄だと考える誘惑に遭ったことがありますか?

    「あなたが主のために為したことは一つとして時間と労力の無駄になることはない。(58,MSG訳)」ことに励まされましょう。パウロはイエスの勝利への相応しい応答は「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励む(58)」ことなのです。

    主のわざに励みましょう(58)。すなわち、主があなたを召したことに労しましょう。他の人々が異なる働きに専心していることで心配したり、脅えることはありません。一人ひとりに異なる召しがあるのです。それは私たちが判断することではありません。彼らは、違った方法に可能性を見出し、神に仕えることを探究しています。私たちは各々、自分の人生に与えられた神の召しに従いましょう。

    神があなたにするように召されたことはなんでも、全身全霊で取り掛かりましょう。なぜなら、復活はあなたが堅く立って、動かされないように出来、自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
  3. 財をささげる
    主の働きとしてあなた自身をささげることは、あなたのお金をささげることを通してです(16:2)。私たちはここにクリスチャンの施しの数々の原則を見ます。第一に、それはまず「聖徒たち」すなわち教会のためです(1)。第二に、それは「いつも週の初めの日に(2)」定常的にすべきです。第三に、「あなたがたはおのおの(2)」皆がすべきです。第四にそれぞれの収入に見合ってすべきです(申命記16:17参照)。「あなたが出来る中で気前よくしなさい(1コリント16:2,MSG訳)」)

祈り:父よ。私は罪、律法、死に打ち勝った私たちの主イエス・キリストを通して得られる勝利の賜物に感謝してもしきれません。私は再び、私の人生、私のお金、すべて私が持つものを主の働きを成すためにお献げします。


悪に打ち勝つ勝利

2歴代21:4-23:21

今日、耳にするニュース。恐ろしい出来事、悪の支配、おぞましい殺人…それらは今に始まったことではありません。

これらの章は神の民の歴史の中で悪い時期についての記述です。神はヨラムを「悪い男(21:6,MSG訳)」)と考えています。彼は「ユダを迷わせた(11)」のです。「彼が死んだとき、だれも涙を流す者はなかった。彼がいなくなってせいせいした!(20,MSG訳)」

アハズヤも同じでした。彼の母アタルヤはもっとひどかったのです。「彼を悪の道にしつけた(22:3,MSG訳)」彼が死んだとき、彼女は悪を行い続け、破滅の原因となりました(10)。彼女は王子たちを一人残らず抹殺しようしました。

しかしながら、ヨアシュが、彼より先の人物であるモーセのように、また彼より後の人物であるイエスのように、隠され守られました(11-12)。

神はダビデのともしびを手入れし、彼の子孫を永遠にすると約束されました(21:7)。悪は打ち破られ、ヨアシュは王に即位しました(23:11)そして、「一般の人々はみな喜び、この町は平穏であった。彼らはアタルヤを剣にかけて殺したからである。(21)」

これは善が悪を打ち負かすという究極的な大勝利を描いています。ヨアシュはやがてお越しになる偉大なお方の型です。神はイエスが乳飲み子の時、イエスを殺したいと思った人々からイエスを守られました。イエスは悪と死を打ち破られた究極の油注がれた王です。

祈り:主よ。私たちは感謝してもしきれません。「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15:57)

H.K

References

Lesslie Newbigin, The Open Secret, (Eerdmans B Publishing, 1995) p.36.