Tokyo Chapel

2019年12月12日

第346日

叱責を受ける者となる恩恵

誰かから叱責されることを私は嬉しいとは思いません。しかし、時間とともに、私は友人の誠実な叱責を、大いなる価値あるものとして見ることが出来るようになりました。みことばは私たちにある種の正しい叱責は神が私たちに目をかけてくださる大切な方法であると告げています。そしてその中で私たちは互いにお世話し合うことが出来るのです。


親切な叱責

詩篇141:1-10

私の人々が親切から私に叱責を与えた時がありました。その時は心穏やかではありませんでした。しかし、良く考えてみると、私は彼らにとても感謝しています。ダビデは義人の叱責親切と見なしています。それは「頭にそそがれる油(5)」だというのです。なぜなら、ダビデの願いは自分の頭だけではなく、体のあらゆる部分と自分の人生を神に栄光を帰するものであるべきだと願っていたからです。

  1. あなたの手を挙げる
    「私がを上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。(2)」神に手を挙げることは、神に全身を開いて明け渡すことを象徴しています。
  2. あなたの唇を守る
    「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。(3)」私はしばしば集会に行き、話をする前にこれを祈ります。助けにならないようなことを言うことから神が私を守ってくださるように、そして私の言葉が励ましと祝福を与えることができますように。
  3. あなたの心を見張る
    私の心を悪いことに向けさせず(4a)」あなたの思考はあなたの行動となります。あなたの行動はあなたの習慣となります。あなたの習慣はあなたの性格となります。あなたの性格はあなたの人生となります。これらすべてはあなたの心から始まります。
  4. あなたの眼を留める
    「私の主、神よ。まことに、私の目はあなたに向いています。(8a)」私たちは「イエスから目を離さないでいる」ことを勧められています(ヘブル12:2)。

祈り:主よ。私はを挙げ、を上げてあなたを礼拝します。そして私のをあなたに留めます。私のをお守りください。そして私のを悪から遠ざけてください


愛の叱責

黙示録3:7-22

イエスはあなたを愛しています。イエスがあなたに叱責の火を通ることを許し、試練と訓練を与えるのは、ご自身の愛からです。イエスはフィラデルフィアの教会に言います。「わたしが愛したのはまさにあなたがたです。…わたしは試練の時にあってもあなたがを安全に守ります。(9-10,MSG訳)」イエスはラオデキアの教会に言います。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。(19)」あなたはどのように応答すべきでしょうか?

  1. すべての機会を生かす

    イエスは聖であり真実です。そしてイエスは「かぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない(7)」のです。もしあなたが、たとえば、仕事や人間関係で確信をもてないなら、それが正しくないのなら扉が閉じられ、それは正しいなら開かれるように神に求めなさい。

    かつて、私の人生の中で少なくとも二度ほど、私はとても願っていた事柄で、そして、きっとそれは神の御心であると信じていたのに扉が閉じられたことがありました。祈り悶えながら、扉が開かれるように努力しました。しかし、閉じられたままだったのです。私は苦々しい思いで、失望しました。しかし、数年後、私は神がそれらの扉をなぜ閉じられたのかを理解し、今はとても感謝しています。(しかしながら、天のこちら側では、なぜ神が私の人生のなかで他の扉を閉じておられるのか、いまだにはっきりと理由がわからない、やがてわかることがあるのです。)

    御霊は続けて言います。「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。(8)」時々、神はあなたの前に機会という扉を置かれます。もし神が扉を開けば、人間はそれを閉じることが出来ません。あなたは大きな攻撃にさらされることがあるかもしれません。しかし、イエスが扉を開いたなら、あなたはイエスがすべての支配権を握っておられることを確信できるのです。

    これはただ受け身になって扉が開かれるのを待つという意味ではありません。しばしば、私たちは信仰によって始めの第一歩を踏み出さなければなりません。それはまるで自動ドアに近づくようなものです。あなたは前に一歩踏み出さばければなりません。そうしなければ、扉は開かれないのです。

    フィラデルフィアにあるこの教会は小さな力しかありませんでしたが、イエスの言葉に留まり、その名を拒みませんでした(8)。かれらは忍耐強く耐え忍びました。そしてイエスは試練の時にも彼らを支えることを約束するのです(10)。

    人間的に言うと、この教会は外見的に特に目立つところのない教会です。しかし、イエスはこの教会に対して批判の言葉を一言も言っていません。イエスの視点は私たちが持つものとはずいぶん違うのです。そして、大きさや力強さなどの外見よりも忠実であることがもっと大切なことなのです。

    イエスのメッセージは単純です。あなたが持ったものを保持し続けなさいということです。イエスは、勝利を得る者は神の宮の柱となると約束されます。主の御名は彼らの上に書かれているのです(12)。あなたの将来は究極的に安心です。
  2. イエスにあなたの心を開く

    イエスの最も厳しい言葉はラオデキアの教会に向けて取り置かれたものです(15-17)。ラオデキアにあった教会は西洋にとてもたくさんある教会のようです。ある意味で、彼らは「成功している」のです。ラオデキアは金融と工業で栄えたことで有名でした。しかし霊的には彼らは自信家で「なまぬるく」、「みじめで」、「霊的に貧しく」、「盲目で、裸の者」だったのです(17)。私はこれらの言葉に深いチャレンジを覚えます。

    それでもここに希望があります。私たちは依然として主に愛されているのです(19)。イエスは本当の宝を求めるように私たちに勧めます。それは火によって精錬され、それによって私たちは霊的に豊かな者とされるのです(18a)。私たちの恥ずべき裸が覆われる唯一の道は、主の義の衣を得ることです(18b)。私たちは自分たちの霊的な目の覆いを取り除けられるために主の目薬が必要なのです(18c)。

    私たちが火の中を通って精錬されるのは訓練の一つの形です(19)。それには目的があります。イエスは私たちに「熱心になって、悔い改めなさい(19)」と願っておられるのです。

    「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(20)」というこの素晴らしい有名な節は、このような文脈の中で語られたことばなのです。一緒に食事をすることは親密な友情関係のしるしです。イエスはすべての人が自分の扉開いてご自身を迎え入れるように提示しておられるのです。

    扉の取っ手は片側にしかついていません*。言い換えれば、あなたは自分の心にイエスを迎え入れるために扉を開けなければなりません。イエスは無理やり入り込んではこないのです。イエスはあなたに選択の自由を与えています。イエスを迎え入れるために扉を開くかどうかはあなたにかかっています。もし、あなたがそうするなら、イエスは約束します。「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

祈り:主よ。私はなまぬるく、中途半端で、無頓着で、霊的に貧しい者であったことを悔い改めます。私はあなたともっと親密でありたいと願います。今日、あなたの聖霊をもって私のところに来てください。そして満たしてください。


知恵ある叱責

エステル2:19-5:14

私の父はユダヤ人で、ユダヤ人である私の親戚の多くはホロコーストの時に、強制収容所で非業の死を遂げました。

しかし、反ユダヤ主義は現代に始まったことではありません。BC5世紀という舞台であるエステル記の中に、私たちは反ユダヤ主義があったことを読み取ることが出来ます。エステルは自分の出自について秘密にしなければなりませんでした(2:20)。ハマンが願ったことは「若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪え」ということでした(3:13)。

モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら町の真ん中に出て行きました(4:1)。要するに、彼は神に助けを求めて呼ばわったのです。

モルデカイは自分の養女であるエステルが変化をもたらす立場にあることを悟りました。エステルは彼女の立場の問題点を指摘しました。そして助けとなるにはどれほど非常に困難であるかを示したのです(9-11)。

モルデカイの反応は親としての知恵深さを働かせて叱責しました。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。(13-14)」

エステルは神が自分に与えた立場と目的を悟りました。あなたにも目的があります。多くの人々が人生の意味と究極の目的を持たずに生きています。彼らは自分の日課を追及して、もっと素晴らしい神の目的を知らずにいるのです。あなたはこの時代に神の目的を成就するために生かされているのです。あなたの立場がどんなものであれ、そこに置かれたのは「もしかすると、この時のためであるかもしれない。」と信じなさい。

エステルはモルデカイの賢明な言葉を聴きました。彼女は、自分の為に人々に断食するように頼み、こう言いました。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。(16)」危険はつきものです。私たちは一つの命しか持っていません。私たちはそれを生きます。もし、私たちが死ななければならないのであれば、私たちは死にます。それでも、危険を冒さないでいるよりも、危険を冒すことの方が良いのです。私たちがエステルのようになることは、究極的に神に拠り頼むことであり、他者の命を救うためい私たちの命を危険にさらすことを望むことなのです。

祈り:主よ。私が知恵ある、そして親切な叱責に耳を傾けることができますように。私が精錬する日を通らなければならない時、私の心をきよめ、もっと大きな愛であなたを愛することが出来るようにしてください。心を尽くしてあなたに仕え、すべての機会を生かすことができますように。アーメン。

References

*ラファエロ前派の画家ホルマン・ハント (1827-1910) はこの節からインスピレーションを受けて、「世の光」という作品を3部描きました。最も有名なものは、セントポール大聖堂に掲げられています。イエスが蔦といばらが生い茂る扉の前にたたずんでいます。この扉は明からに誰かの人生の扉を象徴しています。この人物は今まで、彼、または彼女の人生にイエスを迎え入れたことがありません。イエスは扉の前に立って、ドアをノックしています。イエスは応答を待っているのです。イエスはその人の人生に入り、関与したいと願っておられます。ある人がその絵を見てホルマン・ハントに間違いを犯していると指摘しました。「この絵には扉の取っ手を書き忘れていますよ」と。ホルマン・ハントはこう答えました。「いえいえ、間違ってはいませんよ。取っ手はあるのです。但し、それは扉の内側にだけあるのです。」