Tokyo Chapel

2018年2月11日

第42日

自由

スティーヴ・マックィーン監督作品の「それでも夜は明ける(Twelve Years a Slave)」は1841年にワシントンD.C.で誘拐され奴隷として売られた自由黒人ソロモン・ノーサップの記憶に基づいた映画です。彼は解放されるまで12年間ルイジアナ州ので働いていました。綿花とサトウキビのプランテーションでの恐ろしい奴隷生活が詳細に描かれています。

ついに、1853年、彼は奴隷から解放され家族との再会を果たします。彼はこう記しています。「彼らは私を抱きしめた。そして、彼らの頬には涙が伝った。私の首に腕を回して…。しかし、その詳細を記すより、想像にお任せし、胸にしまっておこう…。私は幸せと自由を回復したのだ。」

奴隷制は恐ろしいものです。そして、自由は素晴らしいものです。

モーセは旧約聖書の神の民を自由にしました。彼は、完全なる自由を与えてくださったイエスの予型です。モーセが神の民を自由にしたように、イエスはあなたを罪の奴隷状態から自由にします。

「自由」は現代において聖書の意味する「救い」を定義づける言葉として最もふさわしい言葉でしょう。聖書全体が「救いの歴史」としてまとめ上げられたものといえます。それは神の願いとご自身の民を自由にするという目的の物語です。


信仰を通してもたらされる自由を楽しむ

詩篇20:1-9

あなたは、問題がある時、気落ちする時、困難な時がありますか?ダビデはそのような時に、(ほとんどが、差し迫った闘いに関することですが)神に助けを呼ばわりました。今日の詩篇の最初の節で「苦難の日に主があなたにお答えになりますように(1a)。」と叫び、最後の節で「私たちが呼ぶときに私たちに答えてください(9b)。」と求めています。神は祈りに答えてくださるお方です。

苦難の日に」、私たちは祈りによって神に叫び求めることができますし、求めるべきです。葛藤の最中に救いと自由をもたらしてくださることを願うのです(6-8)。それは無鉄砲であることや楽観主義であるということではなく、むしろ現実的な信仰であるのです。

ダビデは神は「救う力」があると認識していました。「主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。(6c)」ダビデは言います。「今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。(6a)」
ダビデは、あなたが、あなた自身のため、あなたの家族のため、あんたの友人のため、あなたのコミュニティーのために求めることができるものを6つ上げています。

  1. 守り:「ヤコブの神のみ名があなたを守られるように(1a口語訳)」
  2. 助け:「主が聖所から、あなたに助けを送り(2a)」
  3. 支え:「シオンから、あなたをささえられますように(2b)」
  4. 受容:「受け入れてくださいますように。(3b)」
  5. 成功:「…はかりごとを遂げさせてくださいますように(4b)」
  6. 勝利:「あなたの勝利を喜び歌いましょう。(5)」

成功、勝利、自由は「戦車や馬(7)」からは来ません。私たちの神、主の御名を通してもたらされるのです。

「しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(7b)」

祈り:主よ。私を自由にしてくださってありがとうございます。あなたは私の祈りに答えてくださるという驚くべき方法をもっておられます。主よ。今日、私の計画をあなたにゆだねます。そして私の心の願いをあなたの前に差し出します。


あなたの自由がどのように達成されるかに目を見張る

マタイ26:69-27:10

イエスこそ私たちに最高の自由を与えてくださるお方です。救いの歴史はイエス・キリストの生と死と復活に極まります。私たちがその頂点に至る時、私たちはイエスがどれほどの代価を払ってくださったかが分かり始めます。イエスは最も近しい友に見放され(26:69-75)、一人の弟子に裏切られ(27:1-10)、ローマの権威の手に渡され(2)罪に定められた(3a)のです。しかし、マタイは、このことすべてを「預言の成就(9)」と見ました。

イエスは私たちが自由になるために捕らわれたのです。イエスは、あなたを縛るものからあなたを自由にするために縛られました(2)。イエスはあなたの罪、罪責感。恥、依存症、恐れからあなたを自由にするために、来てくださったのです。

この箇所に、失敗した二人の男が描かれています。一人は失敗の対応を間違いました。もう一人は正しい対応を取った例として見ることが出来ます。

あなたは今まであなたのクリスチャン生活を台無しにしたことがありますか?あなたは主を失望させてることをして失敗したと感じたことはありますか?その結果、「激しく泣いた(26:75)」ことがありますか?私は確かにあります。

二人のイエスの近しい友が、イエスを失望させました。悲しいことですが、私たちは皆、私たちの人生の中である時にイエスをがっかりさせてしまいます。この二人の例は、私たちにそのような失敗や失望に対してどのように応答すればいいのかを教えてくれます。

ペテロとユダとの間には多くの共通点があります。二人ともイエスの弟子でした。二人とも師であるイエスを裏切りました(24-25、34)。二人ともその行動によって預言の成就にかかわりました(26:31、27:9)。二人とも自分がしたことを後悔しました(27:5、26:75)。

しかし、二人には決定的な違いがありました。失敗に対してペテロは正しく応答し、ユダはしなかったことです。聖パウロは「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリ7:10)」と記しています。

ユダは「世の悲しみ」の例です。ユダは宗教指導者のところに生き、自分の罪を告白しました。しかし、彼らはユダの罪責感を増やすだけでした。(マタイ27:4)ユダは罪責感にさいなまれ、悲しいことに、神のあわれみにゆだね、主の救いを受け取ることができませんでした。

一方、ペテロは「神のみこころに添った悲しみ」の例です。

ペテロは恐ろしさのあまり、イエスを三度否定して自分との関係を否みました。ペテロはイエスとともに十字架で処刑されることを恐れ、多分イエスがそれまで現実にしてきたことやイエスが主張してきたことに疑いを持っただろうと理解できます。しかし、鶏が鳴いたとき、彼の疑いが取り去られました。彼は取り乱して「出て行って、激しく泣いた(26:75)」のです。

私達がイエスを失望させたということに気づくことほど、恐ろしい感覚はありません。感謝なことに、これがペテロのお話の終わりではありません(ヨハネ21章を参照)。「神のみこころに添った悲しみは、…悔い改めを生じさせ」、彼のイエスとの関係は修復されたのです。ペテロは罪責感と恥から解き放たれました。そして、偉大で、聖なる、力に満ちた、油注がれた、キリストの教会のリーダーとなって行ったのです。

あなたは、過去の罪や失敗について罪責感や恥にさいなまれる必要はありません。イエスが自由にしてくださるなら「ほんとうの自由(ヨハネ8:36)」を得るのです。あなたが失敗したことや台無しにしたことが山のようにあったとしても、遅すぎるということはありません。ペテロのように、応答しましょう。そうすれば、あなたは大いなる将来に向かってイエスに仕えていくことが出来るのです。

祈り:主よ。私を罪、罪責感、恥、依存症、恐れと失敗から自由にするために、縛られてくださったことを感謝します。私が失敗した時、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、悔い改めを生じさせ」あなたのもとに立ち返ることができるように助けてください。


神を礼拝するという自由を用いる

出エジプト9:1-10:29

神を礼拝するときに、私たちは本当の自由を得ます。なぜなら、私たちが創造された目的は神を礼拝することだからです。

ローマ教皇ベネディクト16世がラッツィンガーの枢機卿であった頃、このように書きました。「出エジプトの唯一のゴールは礼拝に見いだされる。土地が与えられたのは、まことの神に礼拝をささげるための場所としてであった。自由は、パロに立ち向かわれた神に礼拝する権利を与えるためであった。出エジプトの唯一の目的であり、実に基本的なことである。」

もう一度言うと、イスラエルの民の歴史において、私たちは神の救いの予型を見ます。私たちは神の計画がモーセを通して奴隷状態にあった民を解放することであったことを見ます。何度も神はモーセに「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます『わたしの民に行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。』」と言われました。(出9:1)

モーセは多くの機会をパロに与えました。何度も何度もモーセは「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。」とパロに神のことばを告げます(9:13、10:3、7)。MSG訳では「私の民が私を礼拝するように彼らを解き放て」と訳されています。

この世は、私たちの「良い働き」を理解できますが、私たちの礼拝を重要だとは見ていません。パロは彼らを怠惰だと責め、礼拝を働くことと引き換えにしていると考えました(5:17-18)。しかし、礼拝は私たちの最高の目的であり働きです。実に、ここで用いられている「アヴァド(avad)」というヘブル語の「礼拝」は「礼拝」とも「働き」とも訳すことが可能な言葉なのです。

神はあなたを愛しています。神は誰をも罰したいとは願われません。しかし、すべての人に悔い改めが必要なのです(2ペテロ3:9)。パロのように、心をかたくなにし、神が示しておられる警告のしるしをすべて無視するような者だけを罰するのです。プライドはパロの罪の根でした。拒めば拒むほど、面目を失わずに心を変えることが難しくなりました。間違った方向に突き進むより、自分が間違ったことを認める準備をすべきです。

神は、ご自身の民に、全生涯を通して、神を礼拝するための自由を与えたいと願っておられます。神はあなたを罪責感、恥、罪、依存症と恐れから解放したいと願っておられるのです。そして、神はあなたに神を愛し、仕え、礼拝するために自由になることを願っているのです。

祈り:主よ。あなたが「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:36)」と語ってくださったことを感謝します。どうか、あなたを礼拝し、仕える自由を用いさせてください。アーメン。

H.K

References

Solomon Northup, Twelve Years a Slave, (London: Sampson Low, Son & Company, 1853)