Tokyo Chapel

2019年1月3日

第3日

あなたが歩む時に話す

私は散歩することが好きです。それは体に良い運動となります。もちろん、歩くということには意味がありますが、ある人にとっては単なる移動の手段でしかありません。

誰かと一緒に歩くというのも楽しいものです。歩きながら話すのは良いコミュニケーションの方法です。家族や友人と、そして神とともに。

2つのことを同時にしていることにポイントがあります。それは、会話するということと移動するという2つのことを別々にしているということではありません。一緒に歩くことで心通わせるのです。エノクもノアも「神とともに歩んだ」のです。(創世記5:24、6:9)。彼らはただ、神の前で座り、ひざまずき、立った(私たちがしばしば、神に時間を費やすことに関連する動作のように…)のではなく、彼らは神とコミュミケーションを持ったのです。彼らは何をするときにも神と心通わせたのです。あなたも、働いているとき、食べているとき、運動しているとき、休んでいるとき、同じように神と心通わせることができます。

個人的には、私も祈るための最高の方法を見つけました。それはここ数年私の生活の中で習慣となりました。毎日、聖書を読んだ後で、近くの公園に散歩に出かけます。それは大抵ひと気のない早朝です。手帳とペンをもって、祈りの内に聖霊が語られたことをメモするのです。あなたはバス停に向かって歩いているときや会議の合間に祈ることもできます。歩くときに神と話すのです。

聖書は神とともに歩むことを多くの箇所で取り扱っています。それは私たちがどのように生きるべきかを指し示しています。神があなたに願っておられるのはあなたが神との関係の内に謙遜に歩むことです(ミカ6:8)それはイエスによって可能となるのです。キリストが歩まれたように歩む(1ヨハネ2:6)のです。時々躓くことがあったとしても、やがて「白い衣を着て(黙示3:4)」キリストとともに歩むのです。


かしらを上げて歩む

詩篇3:1-8

ダビデは神とともに歩みました。しかし、これは、すべてが完璧だったという意味ではありません。

この詩篇はダビデの子アブシャロムがダビデに反逆したことが背景となっています。アブシャロムの反逆の原因の一部はダビデの姦淫にありました(2サムエル12:11参照)。しかし、ダビデは自分がしたことを悔い改め、神はダビデを赦し、関係を修復してくださいました。

ダビデの生涯には困難がありました。「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼に神の救いはない』と。(詩篇3:1-2)」しかし、ダビデは神に叫びます。「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。(3)」ダビデのように、私たちも恐れも願いも神の前に出すことが出来ます。「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。(4)」

困難な状況でしたが、神はダビデのかしらを上げてくださいました。神は、後悔する事柄、取り囲む問題、自分の内にある罪に囚われてあなたが意気消沈することを望んではおられないのです。むしろ、あなたのかしらを高く上げ、あなたに与えられる助けを見ることを願っておられます。あなたの目を神に向け、かしらを上げて歩むために。

ダビデが「私は身を横たえて、眠る」ことができたのは、「主がささえてくださるから」でした(5)。そして「取り囲んでいる幾万の民をも」ダビデは恐れなかったのです(6)。たとえ問題に囲まれていても、ダビデには深い平安がありました。それは嵐で湖が波立っていたとしても、湖底には静けさがあるのと同じです。

祈り:主よ。この年をあなたとともに毎日歩むためにあなたの助けが必要です。どうぞ、私のかしらを上げて平安の内に歩ませてください。日々の必要を備えてくださることを信頼します。


聖霊とともに一歩ずつ歩む

マタイ2:19-3:17

バプテスマのヨハネはイエスのために道を備えました。ヨハネのバプテスマが象徴的であったのに対し、イエスは「聖霊のバプテスマ(3:11)」を与えるお方です。イエスがバプテスマを受けたときに「神の御霊が鳩のように下って(16)」来たことで、この預言は劇的に確証されたのです。それはバプテスマのヨハネが示した通り、イエスこそ聖霊をあなたや私に注ぐことがお出来になる唯一のお方なのです。

様々な点でイエスが受けたバプテスマは私たちが受けるものと異なります。まず、イエスのバプテスマの目的は悔い改めではありません。イエスは悔い改める必要はありませんでした。また、すでに聖霊に満たされていたのです。バプテスマのヨハネは最初、イエスにバプテスマを施すことを躊躇しました(14)。しかしイエスは。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(15)」と言われました。

イエスは罪深い私たちが、正しいスタートを切ることができるように、私たちの手本となり、私たちと同じようになってくださったのです。十字架の上で私たちの罪を担ってくださったように、イエスはここでもそうしてくださったのです。その結果、私たちも同じように聖霊を受けるという体験を得ることができるのです。そして「御霊によって歩む(ガラテヤ5:25)」ことが出来るのです。今日の箇所で、「御霊によって歩む」ことの意味を知ることが出来ます。

  1. 火で精錬される
    ヨハネは「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、…その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(11)」と言いました。聖霊が臨まれる時、あなたの生活は力を受け、清める火のように精錬されます。聖霊の火によって精錬されるというのは、イエスが再臨されるときに裁きの火の恐れから解き放たれることができるということです(12)。
  2. 平和に満たされる
    イエスがバプテスマを受け、水から上がられたとき、「天が開け、神の御霊が鳩のように下って(16)」来ました。鳩はあなたの生活に聖霊がもたらす平和を象徴しています。御霊の実は「平和」です(ガラテヤ5:22)。
  3. 神の子とされる確証
    天の声は「これは、わたしの…子(17)」とこだましました。イエスこそ神の子であられますが、聖霊はイエスが成し遂げられた御業のゆえに私たちが神の息子、娘であることを確証します。あなたは養子となる特権を聖霊によってもたらされました。そして聖霊によって「アバ。父」と呼ぶのです。「 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:15-16)」
  4. 神に愛されていることを知る
    天の声はまた「愛する子(17)」と言いました。使徒パウロは「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と告げています(ローマ5:5)。
  5. 神の喜びを感じる
    天の声は「わたしはこれを喜ぶ(17)」と言いました。これはイエスについて言われたことであると同時に、聖霊によって歩む私たちにも向けられたことばです。聖霊によって、神の喜びを私たちは実感するのです。

祈り:主よ。あなたは聖霊によって私を精錬してくださり、平和を与え、私が神の子どもであることを確信させてくださいます。そしてあなたが私を愛し、喜んでくださっていることを知ることができます。どうか、私が御霊によって歩むことができるように助けてください。


神との関係に歩む

創世記4:17-6:22

人類は神の創造の頂点です。神は私たち人間が、神との関係に歩むように創造されました。「神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。(創世記5:1-2)」

しかし、悲しいことに人は迷い出てしまいました。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。(6:5-6)」

悪は私たちの思いや想像から始まります。つまり、私たちの心からです。コンピューターがどんなに高性能でも、不完全なデータを入力すれば、不完全な答えしか得られないのと同じです。私たちは行いだけではなく、私たちの思い、態度、動機、想像を見張る必要があるのです。

退廃と悪の中であっても、同化することなく、変化を与える者になることができます。エノクとノアはその例です。彼らは周りに影響されるのではなく、「神とともに歩んだ」のです。

「エノクはメトシェラを生んで後(5:22)」と記されています。私たちが子を儲けるとき、力強い驚くべ奇跡を体験することがあります。エノクも神によって命が与えられるという体験を通して、神を身近に感じたのかもしれません。

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(24)」

ノアもまた神とともに歩みました。ノアは、主の心にかなっていた(8)のです。彼の周りには悪が取り巻いていましたが、「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人(9)」であり続けたのです。ノアは神を信じ、彼の眼には雨も水も見えない時に箱舟を造りました。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った(22)」のです。

祈り:主よ。私の思い、言葉、振る舞いを正しくあらせてください。あなたと親しく歩ませてください。どうか、あなたが私にするようにと語られることに従う力を与えてください。アーメン

H.K