Tokyo Chapel

2019年3月21日

第80日

誘惑に対処する方法

ギリシャの詩人ホメーロスのオデュッセイアによれば、セイレーンは3人の神話上の女性で、島に住んでいました。船が通りがかるたびに、彼女たちは断崖から歌い、その声に魅かれて水夫たちは近寄って行き、ついには岩礁に乗り上げて難船してしまうのです。

オデュッセウスはセイレーンの歌を聴くことに好奇心がそそられました。しかし、それは危険を冒すことになります。彼は島に近づく時、部下にマストに自分を縛りつけ、部下には蜜蝋で耳栓をするように命じました。オデュッセウスがセイレーンの呼びかけを聴くとき、彼は縄を解くように要求しますが、水夫たちは彼をもっときつく縛りました。そして、危険が去った時、ようやく彼を解いたのです。

この物語は、誰しも悪いと分かっている、ましてや破たんさせると知っている浮気心に魅かれる力の強さを考えさせてくれます。誘惑に遭うことなく人生を過ごせる人は誰もいません。誘惑そのものは罪ではありません。イエスは「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4:15)」


浮気への誘惑

箴言7:21-27

この箇所は、性的な誘惑の力と危険性を描写しています。

  1. 魅力的な言葉に気を付ける
    あなたが聴くもの、読むものが何かに注意しましょう。「女はくどき続けて彼を惑わし、へつらいのくちびるで彼をいざなう。(21)
  2. 愚かな行動を避ける
    思考と言葉は結果的に行動に導きます。「…ただちに女につき従った。(22)…自分のいのちがかかっているのを知らない。(22-23)」
  3. あらぬ思いを制御する
    誘惑はしばしば私たちの心から始まります。「あなたのは、彼女の道に迷い込んではならない。(25,マタイ5:28)」

この警告を心にとめましょう。「聞きなさい。…真剣に私のこれらの言葉を手に取りなさい。愚かになるな。…彼女の近所をぶらぶら歩くことさえしてはならなない。(箴言7:24-25,MSG訳)」この道につき従えば「墓まで一直線の常道であり、死の穴へと陥れる。(27)」

祈り:主よ。私を誘惑に遭わせず、悪から離れさせてください。私の心を守り、洞察を与え、私の足を導いてください。


制御と誘惑

ルカ3:23-4:13

神はあなたの生活の中に誘惑を許します。あなたがこれらのテストを通してあなたの信仰は強められるのです。

イエスは誘惑についてすべてを知っていました。40日間の断食の後(4:2)、悪魔はイエスを誘惑しました(3)。神は悪魔がイエスを誘惑するのをお許しになりました(彼は「御霊に導かれて荒野におり」,1)。

イエスがバプテスマを受け、聖霊に満たされた後に悪魔の試みがありました。このことは象徴的に注意を促しています。私たちも特別な霊的な祝福や満たしを受けた後、悪魔が攻撃して来ることがあります。たとえば、アルファ・ウィークエンドで聖霊の満たしを受けた後などです。

ルカは「神の子」(3:23-38)としてのイエスのアイデンティティーを強調していますが、イエスが遭った誘惑はしばしば私たちもまた同じように直面するものです。

これらの誘惑の鍵は「制御すること」に関連しています。つまり、食欲の制御、野心の制御、生活の制御です。悪魔はあなたの人生を制御しようと誘惑します。神は、そのような誘惑にあなたが遭う時に、聖霊によって自由になることを知って欲しいのです。

  1. 目先の欲望
    悪魔はまず、イエスの肉体的な食欲という欲求(3)、即物的な欲求に訴えました。イエスは「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」(4)と答えました。

    即物的欲求を満たすことを続けていると、幻滅、空虚、失望へと導かれます。神に聴きましょう。そして、神との関係を築くことによって、深い霊的な充足、喜びと目的へと導かれましょう。
  2. 自己中心な野心
    悪魔は簡単に世界制覇するという野心に訴えました。悪魔はこう言いました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。(6-7)」

    自分のためにモノを手に入れようという誘惑はとても強力です。物質的な繁栄は、地上での「権力と栄光(6)」へと導きます。しかし、危険なことは経済的な保障を手に入れることが目標となり、神にではなく富により頼む者になってしまうということです。

    イエスはこの誘惑に対して「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」(8)とお答えになりました。究極的には私たちが求めるべき一つのものは神との関係であり、それが人生すべてを保障するものなのです。
  3. 高慢な権力
    悪魔はイエスを神殿の一番高い場所に連れて行き、こう言いました。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。(9)」そして聖書のことばを引用しました。(もちろん、文脈を外れた引用です。)イエスはこの聖書のことばに聖書のことばで答えました。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。(12)」

    あなたは神に従い、神に仕える人生に召されているのです。イエスは多くの奇跡を起こしましたが、常に父なる神に従い、聖霊に導かれました。それは神を試すのとは大違いです。それは自分自身の計画ではなく、神の祝福を求める生き方です。神のみこころを選び、神の召しに従うことを願い求めましょう。

イエスは神のことばによって、悪魔とその誘惑を断ち切りました。イエスは繰り返し「こう書いてある」と聖書のことばを引用しました。そして悪魔の嘘と誘惑に直接的な答えを与えたのです。

悪魔は「イエスから離れた」のですが、それは「しばらくの間」でした(13)。悪魔は次の機会をうかがっていたのです。あなたにも誘惑が少ない時期を過ごすことがあるかもしれませんが、悪魔は虎視眈々と機会を狙っていることに気をつけるべきです。

祈り:主よ。あなたの聖霊の導きに従うことができますように。あなたの御そば近くを歩ませてください。あなたのみことばを知り、誘惑に負けないようにしてください。


比較の誘惑

民数記11:4-13:25

イエスが「荒野(ルカ4:1)」で試みに遭ったように、神の民は長年にわたって荒野での試みに遭いました。この箇所でうながされている注意は私たちのためのものです(1コリント10:6参照)。

  1. 不平不満
    神は民に食物を用意されましたが、彼らは他の食べ物をしきりに欲しがりました(民数11:4)。神が奇跡をもって彼らに与えた食べ物の感謝するより、「ああ、肉が食べたい。(4b)」と言ったのです。彼らは「愚痴をこぼし(10,13,MSG訳)」不平を訴えたのです。

    彼らはエジプトで手に入った食べ物と荒野での食べ物を比較し、エジプトに帰りたいという誘惑にさらされました。このような罠に人は簡単に陥ります。不満の種はいつも溢れています。しかし、もし、私たちの眼がそれらに捕らえられていても、私たちは神のあわれみ、赦し、愛、恵みに取り囲まれているのです。

    「…いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。
    『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」(ヘブル13:5)

    不平不満の解毒剤は感謝することです。感謝の態度を養いましょう。
  2. ねたみ
    アロンとミリアムのモーセに対する嫉妬を聖書は描いています。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」(12:2)。また、ヨシュアがモーセや長老たち以外に預言する若者がいることをモーセにやめさせるように伝えた時、モーセは「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。(11:29)」とたしなめました。これらの背景には霊的リーダーシップと賜物という要素があります。

    モーセのリーダーシップの構造において、彼は三人(アロン、ミリアム、ヨシュア)の中にあって中心を占めました。そして、イスラエルの12部族のリーダーたちがいたのです(13:4-15)。さらに70人のリーダーや補佐たちがいました(11:16以下)。これはイエスが、親しい3人の弟子(ヨハネ、ヤコブ、ペテロ)、他の12人の弟子たち、そして72人の弟子たち(ルカ10章参照)を構成したのと似ています。聖霊がモーセの70人に臨んだ時、「彼らは預言した(民数11:25)」のです。

    モーセと同様に、神が他の人々を力強く用いられるのを見るときに、比較したり嫉妬心を持つ誘惑を避けましょう。モーセは、彼が得ることのできるすべての助けが必要であると認識していました。彼は答えました。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(29)」モーセは自分こそ神にもちいられるただ一人の人物であると考えてなどいなかったのです。主はモーセに言いました。「わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。(17)」
  3. プライド
    ねたみや嫉妬が他人との比較で自分が劣っていると感じることによって生じるのに対して、プライドは他人との比較で自分が勝っていると感じることによって生じます。

    モーセもまたプライドの誘惑に抵抗しました。プライドは神との関係に大きな障壁を作ってしまいます。C.S.ルイスは「真の謙遜はあなたを低く評価する(think the less of yourself)ことではない。あなた自身の足りなさを知る(think of yourself less)ことである。」という格言を残しました。

    「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。(12:3)」神がモーセをあれほど力強く用いた理由はおそらくここにあります。

    モーセは謙遜でした(12:3)。忠実でした(7)。またあわれみ深い人(13)でした。これらすべてが神との非常に近しい関係を「顔と顔を合せて語る(8,NIV訳)」ほどの親密さをもって支えていたのです。

祈り:主よ。私を不平不満、嫉妬、プライドの誘惑に抗することができるように助けてください。私を信頼と忠実と謙遜であるように助けてください。アーメン。

H.K

References

C.S. Lewis, ‘True humility is not thinking less of yourself. It is thinking of yourself less.’

C. S. Lewis may not have used these exact words but he did say something similar in Mere Christianity, which has inspired the evolution of this quote.