2019年1月9日
第9日
物事を正してくださる神に信頼する
ピッパと私は一緒にクロスワードパズルをよく楽しみます。ひとつの文字がわからなくてもあきらめることはありません。次の文字の手がかりを探せばいいからです。そして、文字が埋まっていくにつれて、最初わからなかった文字の手がかりが浮かび上がり、徐々に謎が解けていくのです。(全部解けることは稀ですが!)
聖書の難しい箇所を読み解くのもクロスワードパズルを解くのと似ているところがあります。いくら考えても理解しにくい箇所で泥沼にはまってしまうよりは、理解できる箇所を照らし合わせながら、難しい箇所にあたる時、謎を解く助けとなるのです。
聖書の難しい箇所を理解する時だけではなく、この世に起こる出来事を理解しようとするときも同様です。この世にはどうしてこれほどに不正があるのかと思えます。簡単には答えを出すことができないのです。
私は「全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。(創世記18:25)」という昨日の聖書箇所の2つ目の偉大な反語的な疑問が好きです。それはやがて、すべてが明らかになる最後の日、神の完全な裁きにおいて確かに見ることが出来るでしょう。そしてすべての人が言うのです。「これこそ完全に正しいことだ」と。今日の箇所には来るべき日に神が物事をすべての正してくださることを教えてくれるのです。
神の正しい裁きに信頼する。
詩篇7:1-9
今日において、神が裁きをなされると、世の中の戦いは激化すると思いがちです。実はまったく逆です。人が神が裁きの主であることを忘れると、自らの手で裁きを下そうとして敵に報復するのです。
ダビデは神の裁きに信頼をおきました。神が裁かれるとき、その裁きが正しいと信頼したのです。「私を訴える者は法廷にぎっしりと埋まっています。さあ裁きの時です。あなたの席に御着きください。判決の小槌に手を伸ばし、偽りの訴えを却下してください。私はあなたが正しい評決をなさるのを信じ、待っているのです。(7-8,MSG訳)」言い換えるなら、ダビデは神が彼の敵を取り扱ってくださることに信頼したのです。
もし、あなたが神が完全な義をもって裁きを実行してくださるということを信じるなら、あなたは御手に委ねて、「あなたの敵を愛しなさい(マタイ5:43-48、ルカ6:27-36)」とあなたにイエスが語られたことをするのです。
実にミロスラフ・ ヴォルフが「非暴力の実践は、神が復讐してくださるという信念が要求される」と言ったとおりです。今日における世界の問題の多くは、正しく裁きをなさる神がおられることを信じ、終わりには神が正しく物事を配置されることを信頼するなら解決するでしょう。
祈り:主よ。私はあなたを避け所とします(7:1)。あなたが完全な裁きを為してくださると信頼できますことを感謝します。あなたの裁きのゆえに、私はもはや復讐する必要がありません。そして敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるのです。(マタイ5:44)
イエスが神の裁きを委ねられたお方であると信じる。
マタイ7:24-8:22
イエスは家を建てることについて精通していました。イエスは大工の子として成長しました。ですから、建物にまつわる譬えはよく登場します。二人の人がそれぞれに家を建てることにしました(7:24-36)。そこで、たぶん家族とともに楽しく暮らそうとしたことは疑いないことでしょう。どちらも長持ちするには何が大切かを考えて建てていました。私たちの人生は家のようです。大切なことはそれが永遠に続くかどうかです。
家にとって最も大切な部分は土台です。二つの家は外観はさほど変わりがなくても、土台が違いました。一つの家は岩の上に建てられたのです(25)。同様に、二つの人生もさほど変わりがなくとも嵐が来たときの結果にいや応なく大きな差がでます。
この世にあって人生にも嵐がやってくるでしょう。それは色々な形をもって現れます。誤解、失望、落胆、疑い、試練、誘惑、挫折、悪魔の攻撃など…。成功さえ試練になり得ます。圧力、災難、病気、死別、後悔、トラウマ、悲劇、迫害、失敗。
究極的には、私たちは死に直面し、そして神の裁きの座に立つのです。それは「大雨」や「激しい雨」のイメージとして用いてエゼキエルは神の裁きをなぞらえました(エゼキエル13:11)。裁きという言葉は旧約聖書だけにとどまらず、ここでも、またほかの箇所でも、イエスは裁きが来ることを警告しています。それは他の福音書記者たちも同様に記しています。
「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた(マタイ7:25,27)」時、岩の上に建てられた家は倒れず(25)、砂の上の家は倒れ、「しかもそれはひどい倒れ方でした」(27)。厳粛な警告の言葉です。人生の中で試練があり、裁きの日がやってくる。イエスによれば
それは確かなのです。
しかし、そのことに怯えて生きる必要はありません。容易いことではありませんが、あなたの家の土台が試されるとき、しっかりと建っていることを確かにする方法があるのです。あなたの将来が安心できることを知ることは可能なのです。
イエスは賢い者とは、ただ聞くだけではなく、「これらのことばを聞いてそれを行う者(24)」だと教えています。愚かな者は、それとは反対に、イエスのことばを聞いても「それを行わない者(26)」です。
知識は行動を導かなければなりません。私たちの神学は私たちの生活に沿ったものであらねばなりません。そうでなければ、砂の上に人生を築くことになるのです。
第一に、イエスの言葉は、イエスを信じることへと招きます(ヨハネ6:28-29)。私たちの救いはイエスにある信仰によるのです。そして、従順に生き抜くのです。
あなたはイエスの裁きにおいて完全な確信を持つことができます。なぜなら、イエスが神ご自身の権威をもっておられるからです。イエスの権威を信じた百人隊長の信仰を「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」とイエスは絶賛しました(マタイ8:10)。
それは、イエスのことばだけでしもべが癒されるのに十分だと百人隊長が信じたことの故でした(8)。彼がそう信じた理由には深みがあります。百人隊長は、軍隊において、権威が有効であるのは、権威のもとにある場合であることを認識していたのです。イエスが権威を持つのは、父なる神の権威のもとにあるのだからと理解していたのです。百人隊長は、イエスの語る言葉は、神が語る言葉であると見ていたのです。
さらには、この完全な裁きは人間が被る患難と無縁ではありません。私たちはイエスが、不法、捕縛、拷問、十字架を経験したことを知っています。この箇所において、私たちはイエスが病(17)やホームレス(20)さえをも経験さえたことを見ることができます。イエスが経験された患難以上の患難を受けて者はいないのです。
祈り:父よ。イエスが私の弱さに同情することができるだけではなく、私の罪の裁きを背負って死んでくださったことのゆえに感謝します。そして、それゆえに、もう怯える必要がないことを感謝します。
最後には正しい裁きがこの地になされることを信じる。
創世記19:1-20:18
昨日、私たちはアブラハムがどのようにソドムとゴモラをとりなしたかを見ました。彼らの罪がどれほどのものであったかを私たちは正確に知ることは出来ません。しかし、主は「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。(18:20)」と言われたのです。
今日の箇所で、ソドムとゴモラの罪がどれほどひどいものであるかが記されています。彼らは集団で暴行行為をするような恐ろしい罪を犯していました(19:3,5)。エゼキエル書16章にはソドムは高慢で、安逸をむさぼり、「乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。(エゼキエル16:49)」と記されています。それは今の世も同じような状況が見受けられます。
神はアブラハムのとりなしによって10人の正しい人をソドムに見たなら、「滅ぼすまい。その十人のために。(18:32)」と約束されました。しかし、それにも満たなかったのです。ロトと妻と二人の娘はかろうじて難を逃れる道が開かれました。それは「主の彼に対するあわれみによる。(19:16)」と記されています。
ロトの妻への裁きはとても厳しいように見えます(26)。しかし、私たちはそこから学ぶべきです。イエスは「ロトの妻を思い出しなさい(ルカ17:32)」と戒めています。私たちは振り返ってはなりません。罪の生活を捨て去ったなら、そこに戻ろうとしてはなりません。彼らは言われました。「いのちがけで逃げなさい。(19:17)」同じように、わたしたちも「悪い欲求から逃げなさい(2テモテ2:22,NIV訳)」と言われているのです。
アブラハムでさえ罪を避けることは出来ませんでした。実に、彼は同じ罪を繰り返しました。サラを妹と偽って彼女に姦淫を犯させたのです。聖書のメッセージは神が罪人を赦すということだけではありません。神が罪人をも用いるということもです。神はアブラハムを祝福し、彼の祈りを聞かれました(創世記20:7)。神は私たちの罪にもかかわらず、そのあわれみのゆえに、イエスにその裁きを担わされたのです。
主よ。私たちが受けなければならない裁きをキリストの十字架によって代えてくださったことを感謝します。世の終わりに、この地のすべての裁きが正されることを確信することができることを感謝します。アーメン
H.K
References
Miroslav Volf, Exclusion and Embrace, (Abingdon Press, 1994) pp.303–304