2019年2月14日
第45日
世界で最も大切な質問
博学なロンドン大学の哲学教授C.E.M.ジョードはクリスチャンではありませんでした。ラジオ番組で「歴史上の人物に会って、ひとつだけ質問できるなら、誰に何を聞きますか?」と尋ねられました。
ジョード教授はためらうことなく「イエス・キリストに会って、世界で最も大切な質問をする。― 『あなたは死からよみがえったのか、よみがえらなかったのか?』ということだ。」と答えました。
その後、ジョード教授は証拠を検証し、イエスご自身と出会い、「信仰の回復」という題名の著作を残すという生涯を送りました。もし、イエス・キリストが死からよみがえったのなら、すべてが変わります。
新約聖書の作者たちが神の愛を語るとき、彼らの指し示しているのは十字架です。彼らが神の力を語るとき、彼らの指し示しているのは復活です。「神のすぐれた力」は「キリストを死者の中からよみがえらせ」(エペソ1:19-20)ました。復活したイエスは弟子たちに言いました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威(支配するすべての権力)が与えられています。(マタイ21:18,AMP訳)」
復活とはよみがえったイエスが今私たちとともにおられるということを意味します。イエスは続けて言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(20)」
復活の結果はイエスの力と臨在だけではなく、イエスの供給です。
神の力
詩篇21:8-13
新約聖書によれば、イエスとは「神の力(1コリ1:24)」なるお方です。
ダビデは神の「御力」「威力」を賛美しました。(21:13)そして、神の手(8a)と特に神の手の義(8b)の確かさを語ります。聖書の中で、手は、特に「義なる手」は力の象徴として用いられています。(たとえば、今日の旧約聖書の箇所である出エジプト15:6,12)ダビデは神の力強い裁きの力を語ります。
新約聖書では、復活のイエスはしばしば「神の右の手」として記述されています(たとえば使徒2:33a,NIV訳)。もし、誰かが「あなたに対して悪を企て、たくらみを設け(21:11)」たとえ、それが上手くいっても、私たちは彼らの力は一時的であることを覚える必要があります。なぜなら、イエスが神の右の手におられて、究極の権威と力をもっておられるからです。やがて神が介入してくださいます。イエスはよみがえり、生きている者と死んだ者を裁くために再び来られるのです。
祈り:主よ。あなたの偉大な力を感謝します。「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。(13)」
神の臨在
マタイ28:1-20
復活のイエスの臨在の感覚を経験すること以上に大いなる経験はこの世にはないことを私は見出しました。
復活のイエスは、ご自身に従う者たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(19a)」と委ねられました。これは個々のクリスチャンにも教会にも向けられた召しです。私たちの教会の使命宣言(ビジョン・ステイトメント)は「国の福音宣教化の働きを担い、教会を生き生きとさせ、社会を変革すること」です。それはイエスのこの命令を土台にしています。
命令には約束が伴います。「いつも、あなたがたとともにいます。(20)」復活は単に歴史の事実や宗教的な思想だけではありません。それは人生を変える現実です。神はあなたが神が委ねた命令を成就するために行くとき、復活のイエスの臨在はあなたと共に行くのです。
女たちが空の墓を見た時、御使いは彼女たちに告げました。「ここにはおられません。…よみがえられたからです。…そこで、お会いできるということです。(6-7)」
「大喜びで」彼女たちは弟子たちに告げるために走って行きました。彼女たちがしたとおりに「イエスが彼女たちに出会って(9)」くださいました。彼女たちは復活のイエスの臨在を体験しました(8-10)。「御足を抱いて(9)」神としてイエスを礼拝しました(9b,17a)。
墓が空になったことを説明しようという試みはすぐに始まりました(13)。すべての証拠にもかかわらず、皆が信じたわけではありませんでした(17b)。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。」と指示されたことが記されています(13)。この説明を仮定している人々は今もいます。しかし、それは証拠には適合しません。
- 弟子たちは意気消沈しおびえていました。復活の奇跡がなければ、彼らの変化は説明できません。
- 弟子たちはイエスが死からよみがえることを期待していませんでした。彼らには死体を盗む動機がありません。
- 墓は厳重に警備されていました。
- 彼らだけがイエスに出会ったのではありません。復活の後、たくさんの人々がイエスに会い、40日間にわたって交流がありました。(使徒1:3,1コリント15:6)
- もし、弟子たちが死体を盗んだのであれば、彼らの人生は嘘の上に築かれたことになります。私の友人のケンブリッジの科学者イアン・ウォーカーは、弟子たちが嘘とわかっていることのために拷問にかけられ、死に至らされることを意志することなど到底考えられないという理由でクリスチャンになりました。
それはまさに事実です。イエスはよみがえりました。死と葬りが終わりではないのです。キリストにあって、あなたもまた死からよみがえるのです。
復活のメッセージを最初に託されたのは女性たちでした。当時、女性の証言は法廷では有効ではなかったということは特に注目に値する事柄です。聖書の中に女性がリーダーシップを持つ例はたくさんありますが、これはその一つです。(今日の旧約聖書の箇所のミリアムなど、他にも例があります。)
マタイの福音書は、マリアから生まれる子がインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれることから書き始められ(1:23)、まさにその締めくくりは、そのお方に従う者に永遠にともに居てくださる臨在の約束の希望が告げられているのです。イエスを信じ、イエスの命令に従う者に、イエスは「いつも、あなたがたとともにいます。(20b)」と約束しておられるのです。
祈り:主よ。あなたが、私に行って、あらゆる国の人々を弟子とするように送り出してくださることを感謝します。あなたは私が行くところにいつもイエスの臨在を与えてくださることを感謝します。
神の供給
出エジプト15:1-15:36
あなたは、あなたの将来に不安を覚えますか?健康、仕事、家庭、経済…?今日、心配しないことを決心しましょう。コーリー・テン・ブームは言いました。「心配とは明日の荷物を今日の力で担おうとすること、つまり 二日分の荷物を一度に担うこと です。それは慌てて明日に首をつっこむことです。」神に信頼しましょう。そして、今日一日を生きることを学びましょう。
私たちはこの箇所で。神は供給を約束しておられるのを見ます。しかし、それは今日一日です。イエスは私たちに「 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:11)」と祈ることを教えられました。神があなたが必要な時に丁度見合った供給をしてくださることを信頼しましょう。
15章のモーセとミリアムの歌は、礼拝における神への信頼の表現の素晴らしい例です。彼らは神のご性質のゆえに神を賛美しました(出エジプト15:1-5)。神が過去になしてくださったことのゆえに神を賛美したのです。それは救い、助け、供給です(6-12)。そして、最後には将来神がなしてくださろうとしていることのゆえに神を賛美しました。それは導き、救い、守り、そして供給です(13-18)。
神は彼らの物質的必要に備えることを約束しました。神は「マナ(31)」と呼ばれる「天からのパン(16:4a)」を降らせることを約束しました。彼らはそれぞれ、自分の必要に見合ってそれらを集めました(18c,21a)。しかし、彼らは将来のためにそれらを貯めないようにと言われたのです。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。(19)」
これは毎年のように、教会という共同体の中で、なにがしか経験することです。神は私たちのすべての物質的必要を満たしてくださいますが、私たちが必要とする以上には与えられません。私たちはそれを将来に備えて貯めるよりも、神が定常的に月毎に、また年毎に満たしてくださることを信頼すべきです。
私たちが受け取るすべてのものを、神が私たちの必要を時に応じて満たしてくださることを信頼するよりも、将来の安心のためにためておきたくなるという誘惑は常にあります。それは、私たちの霊的必要にも適用できます。私たちは過去の祝福をあてにすることはできません。
この箇所にあるように、神の民が簡単に神の良いお方であることや供給してくださったことを忘れてしまい、目の前にある問題に縛られて不平を漏らし始めるということを見るのは悲しいことです。神の祝福を忘れて不満を口にする…それは私たちもしばしば同じです。この箇所は、良い時であっても困難な時であっても神は供給してくださることを信頼する必要があることを私たちに思い起こさせてくれます。
イエスご自身が、ご自分が神の究極の供給であると語っておられます。イエスは言われました。「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(ヨハネ6:48-51)」
永遠の品質を持つこの供給を与えたのは、「復活のイエス」です。イエスはいのちによみがえったので、このパンを食べる者は永遠に生きるのです。
祈り:感謝します。主よ。あなたは「ご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます(ピリピ4:19)」過去を振り返り感謝をささげ、将来を見据えて、あなたが続けて私の必要に即して備えてくださることを信頼します。あなたは復活にイエス・キリストにある豊かさに沿って私の必要にお答えくださるからです。アーメン。
H.K
References
Corrie ten Boom, Clippings From My Notebook, (Triangle, 1983).