いのちの日の限り
私が大学生だった頃、「10年後にあなたはどこにいるのか?」という題の講演を聞いたことがありました。それは私たちを励ますためのものでした。たとえ、大学を出た後でさまざまなチャレンジに遭おうとも信仰を保ち続けるためにです。その時の言葉で覚えているのは、「10年!あっという間に人生は過ぎ去る」でした。私はそんな先を想像することもできませんでした。
それと対照的に、今、私は自分の人生を振り返ると10年前が昨日のことのように感じます。光陰矢のごとしです。まるで速度超過のアラームが鳴っているようです。私は若い時から自分の人生を長いスパンで見通すことを励ましてくださった人々の知恵を今になって理解できるのです。
私たちはインスタントに満足を達成するような社会に住んでいます。インスタント食品、インスタント・メッセージ(SMS)、インスタント・キャッシング、インスタント・ローン、インスタント日焼けサロン、インスタント占い、インスタント宝くじ。私たちが短期的にしか考えることができない大きな危険性に囲まれています。今日の箇所は神が「永遠の神(イザヤ40:28)」であることをあなたに思い起こさせてくれます。神の視点は広角レンズのようです。神は長期的な視点を持っていて、ご自身が喜ばれる人生をあなたに楽しんで欲しいと願っておられるのです。(詩篇30:5)
長い目で人生を見る
詩篇30:1-7
あなたは困難な時を過ごしている最中ですか?一生この状態が続くのかと思ってはいませんか?
「いのちは恩寵のうちにある。(5)」ダビデは生涯を振り返ったとき、彼は神を賛美し、感謝しました(4)。そうです。ダビデは多くの困難に遭いました。しかし神は「私(ダビデ)を引き上げ、私(ダビデ)の敵を喜ばせることはされなかった」のです(1)。ダビデが神に助けを呼ばわる時、神はダビデを「いやされました。(2)」
神、わが神、私は大声で助けを求めて叫びます。
あなたは私を伴ってくださいます。
神、あなたは私を墓から引上げ、
人生にもう一度チャンスを下さいます。
私が、「低く、外に」いるとき(2-3,MSG訳)
ダビデには神が彼に対して怒りを発しているという時もがありました(5)。神がご自身の顔を隠しておられる時もありました(7)。(ダビデは不倫と殺人の罪を犯してしまいました。)しかし、彼が自分の歩んできた道を振り返った時、試練や試みの時を通りましたが、すべてが神の恩寵のうちにあったことを見ることができたのです。
祈り:父よ。あなたの御怒りはつかのまであること、そしてあなたの恩寵は生涯に及ぶことを感謝します。あなたは昨日も、今日も、永遠に同じです。そして私はあなたに信頼できることを感謝します。
長い目で永遠を想う
マルコ12:13-27
人は死を迎えるときに、何が起こるのでしょうか?はたしてそれは「すべて終わり」なのでしょうか?あなたが家族や親しい友人と死別した時に、どこで彼らと再び会うことができるのだろうかと思ったことがあるかもしれません。彼らは今どこにいるのでしょうか?彼らは永遠に逝ってしまったのでしょうか?彼らはどこかで眠っているのでしょうか?それともどこかに居て、生きているのでしょうか?
イエスの反対者たちは常にイエスを見つけては質問を投げかけました(13)。
最初、彼らはお金のことで罠にかけようとしました。しかしながら、彼らはイエスが「高潔な人」であることを認めざるを得ませんでした。イエスは、人気があろうとなかろうと、真理を語るお方であるということを彼らは知っていました(14)。イエスは罠を避けて、驚くべき答えをしたのです(15-17)。(「日々の糧」の第34日[2月3日]を参照)
次に彼らはイエスに仮想に基づいた質問でイエスを試そうとしました。それは死後の命についての質問でした。ユダヤ教の内部においても、パリサイ人とサドカイ人との間には死後の命についての見解に相違がありました。パリサイ人は死後の命を信じましたが、サドカイ人は信じていなかったのです。
イエスはサドカイ人の間違いを2つの理由をもって指摘しました。ひとつ目は、彼らは聖書を知らなかったこと、ふたつ目は神の力を知らなかったことです(24)。
- 聖書のみことば
イエスは死からの復活を絶対的な確かさをもって確信していました。サドカイ人は律法(モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の五書)の権威しか信じていませんでした。イエスは出エジプト3:6を議論の根底として引用しました。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。(マルコ12:26-27)」言い換えると、アブラハムもイサクもヤコブも生きているのだということです。 - 神の力
1コリント15章は新約聖書の中で死からの復活について最も深く語られている箇所といえます。パウロはここで、サドカイ人が否定した神の力について何度も強調しています。「弱いもので蒔かれ、強いものに(「力において」,NIV訳)よみがえらされ(1コリント15:43)」主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださる(56-57)のです。
素晴らしい真理とはこれです。キリストを死からよみがえらせるために働いた同じ力はあなたにも今働いているのです。そしてキリストに似た者にさらに変えられるのです(エペソ1:19-20)。そして将来において、新しい創造によって、あなたの体は復活の体に変えられるのです。
それゆえ、キリストにあって死んだ者は皆、今もなお生きているのです。あなたは彼らと再び会うことができます。それであっても死別は悲しいことです。人生のすべての葛藤は、永遠の尺度で見られるべきです。神は長期的な視野を与えてくださいます。
祈り:感謝します。主よ。この地の人生はそれで終わりではありません。死の後によみがえりがあることを感謝します。永遠の光の中でこの人生のすべての葛藤を見させてください。
長い目で歴史を見る
レビ11:1-12:8
レビ記の様々な規定のポイントとは一体何なのでしょうか?あるのでしょうか?
いつも、私たちは旧約聖書は新約聖書の光によって理解します。特に、イエスのレンズによってです。神は長期的な計画を持っておられます。神はキリストをこの世界に送る準備をしておられたのです。
今日の箇所にあるような一見奇妙な規則の数々は、これから起ころうとしていることの影に過ぎず「キリストの影(コロサイ2:17)」であるということを新約聖書は私たちに告げているのです。規定の目的は聖別することを教えることです。「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。(レビ11:44)」
ペテロはペテロ第一の手紙で初代教会の人々の中で聖である生活を送るように励ましています。ペテロは「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。(1ペテロ1:14-16)」と教えています。
新約聖書もまた、神はキリストを通して私たちを聖としてくださったことを私たちに告げているのです。それゆえ、使徒パウロはこう告げます。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、…だれにもあなたがたを批評させてはなりません。(コロサイ2:16)」これらすべての規定は今はイエスの来臨を通して取って替りました。
多くの規定の多くは多分、とても実際的な理由からだったのでしょう。たとえば、豚を食べることについては、衛生上の実際的な理由(伝染病などの危険を回避するため)から禁止されたのでしょう。同じように、穢れを除く規定が厳格に守られたのは、実際的な必要から説明できます。神はあなたに食べることにおいて賢明であり、健康的であってほしいと願っておられるのです。
出産にかかわる規定では、「出血からきよめられる(7)」のであって、結婚における夫婦の営みや出産そのものが穢れであると言ってるのではありません。これは、むしろ産後の肥立ちを時間をかけてゆっくりと過ごさせるための保護的な意味合いから出たものでしょう。
この箇所はイエスの背景に手がかりを与えてくれます。「もし彼女が羊を買う余裕がなければ(8)」とあるようにマリアは羊を買うことができない貧しさのうちにあったことが分かります。マリアとヨセフは「彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて」宮に行きました。そして、モーセの律法通りに「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って」犠牲をささげたのです(ルカ2:22-24)。
神はこのような律法のもとで、ご自身のひとり子を誕生させるための長期的な計画をなさったのです。長い歴史の中で、神はイエスの誕生までの準備をされました。イエスは律法のもとに生まれ、イエスは律法を成就し、これらの規定を十字架にまで運び9、終わらせたのです。イエスは死からよみがえり、私たちにもそれを可能にされました。やがてその日、イエスとともに、死からよみがえり、神の相続人となるのです。(ガラテヤ4:4-7)。
祈り:主よ。もはや私は律法のもとにはないことを感謝します。私はあなたの子として迎えられました。そしてイエスの御霊を私のうちに送ってくださいました。私はあなたと永遠に過ごすことができます。どうか、人生を、歴史を、永遠をを長期間の視野で見ることができますように。そしてあなたの喜ばれる生涯を楽しませてください。アーメン。
H.K