2019年4月21日
第111日
こんにちは!神様
ドーン・フレンチが女性司祭を演じた「Vicar of Dibley」というイギリスのTVホームドラマがあります。これはジョイ・キャロル・ウォーリスという最初の女性司祭の一人がモデルとなっています。数年前にピッパと私はジョイに会いました。その時、彼女はロンドンの英国国教会の司祭であった頃の話をしました。
フローリー・ショアーという87歳になるとても謹厳な人が会衆の中にいました。彼女は深刻な外科手術を経験しなければなりませんでした。フローリーは回復の見込みはとても低いと言われました。
感謝なことに、彼女の手術は成功しました。彼女が眼を開けた時、最初に見えたのは、白衣を着た医師でぼんやりとした映像で目に映っていました。
彼女はにっこりとほほ笑んで、「こんにちは!神様、私はフローリー・ショアーと申します。」と言ったそうです。
ジョイはこの出来事から2つのことをコメントしました。第一に、フローリーの控え目さです。彼女は神が自分のことを知っているとは期待していませんでした。第二に、彼女は完全な確かさをもって自分が復活することと彼女が行く所を知っていたことです。
復活についての彼女の確かさはキリスト教の土台に据えられているものです。イースターの日にイエス・キリストが復活したということです。イエスを死からよみがえらせた同じ力が今あなたの内に聖霊を通して生きているのです(エペソ1:18-23)。ある日、あなたもまたよみがえります。そして、「こんにちは!神様」と言うことができるのです。
墓の向こう側のいのち
詩篇49:1-20
神無しの人生と神と共に歩む人生は歴然とした違いがあります。
- 神無しの人生
神を知らずに生きる人は、「財産に信頼する(6a)」か自分自身に従います(13a)。この信頼は地位を求めることによって特徴づけられます。彼らは「豊かな富を誇り(6b)」そして自分の所有物によって人に印象を与えるために金銭を用います(16)。そして自分たちの土地に、自分たちの名をつけさえするのです(11)。
彼らは人々の賞賛に心地よく過ごし(18b)、「自分を祝福する(18a)」ことを数えます。どれほどの富と名声を得たとしても、他人はおろか自分自身の魂さえ買い取ることは出来ません。(7-8)手に入れた財産や栄誉は永遠に持ち続けることは出来ません(10)。「恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず…」(16-17a)「よみがその住む所となる(14)」のであれば、すべてのモノの価値とはなんなのでしょうか? - 神と共に歩む人生
対照的に神が共におられるならばステイタスを気にすることはありません。なぜなら、その人のステイタスは成功や富の蓄積によって決まるのではなく、あなたが属しているお方を知ることにおいて、またそのお方にとってあなたがどれほど高価であるかによって決まるからです。
あなたの代価は支払われました(7b)。そして、あなたは贖われたのです。あなたの将来は安心です。「しかし神は私のたましいを よみの手から買い戻される。 神が私を受け入れてくださるからだ。(15)」
神と共に歩む人生は、永遠に繋がる人生であり(9)、詩篇の作者は「どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。(5)」と言います。恐れは人間にとって自然な感情です。しかし、神がともにおられ、あなたは恐れに直面する際に、確信を持つことができます。なぜなら、あなたはこの命に対して、そしてやがて来る命に対して神に完全に信頼することができるからです。
ここに旧約聖書における死後の命について少しばかりのヒントを見ることができます。作者は「神は私のたましいを よみの手から買い戻される。 神が私を受け入れてくださる(15)」ということを確信しています。神と共にある命は死によっては終わりません。
むしろ永遠に続きます。作者は、これがどのようにして可能であるのか知りませんが、これを信頼しています。答えはイエスの復活にあるのです。
祈り:主よ。今、私の内にあるあなたの復活の力を感謝します。あなたは私を死の束縛からつかみ取り、あなたご自身のもとへと取り返してくださったことを感謝します。
死人はよみがえる
ルカ20:27-21:4
私たちが復活と死後の命について考え始めるとき、それがどのようなものであるのかを想像することは難しい事です。人々はどのように見えるのでしょうか?どのような種類の体を持つことになるのでしょうか?私たちはお互いにどのような関係になるのでしょうか?
時々、人々はこれらの類の質問を、復活が非現実的で突拍子もない考えであることを示唆するものとして用います。サドカイ人は復活を信じていませんでした(20:27)。彼らはそのようなトリックを仕込んで、7人を夫とした女性は、復活の際、だれの妻となるのでしょうか?という質問を、からかうように「どうして復活が起こるというのだ!?」と来たのです。
イエスは彼らの質問が「この世」の固定概念に縛られていることを指摘しました。復活はすべての人間関係を作り変え、家系を絶やすことが無いようにと言う意味での結婚の必要性は取り除かれるのです(34-36)。
イエスは質問に答えましたが、続けて現実の課題について話されました。サドカイ人は旧約聖書の中で復活のヒントには関心が薄かったのです。なぜなら、サドカイ人はモーセ五書を重んじていたからです。
イエスは彼ら自身の重んじていた書のひとつを取り上げて、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んでいたことを示し、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(37-38)と答えました。
イエスはご自分の復活だけでなく、「死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たち(35)」がいることを明らかに信じていました。「彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。(36)」
もちろん、それはすべて、そうなると宣言したイエスに依存するものです。イエスはご自身がダビデの子孫であることを指摘しただけではなく、ご自身がダビデの主であることを指摘しました(41-44)。もしイエスが主であるなら、あなたは「死からよみがえられた(37)」ご自身の保証として確信することが出来るのです。
もし、あなたが実際に復活を信じるなら、それは、所有物を含むあなたの生活に対するすべての振る舞いや生活のすべてを変革します。そして、究極的にはこの世の生活であなたが持っているすべてのモノがどうでもよいものとなるのです。
さらに、あなたはこの地上での人生にまったく異なる洞察を持つことができます。死の悲劇に面する時に本当の希望があるのです。この地上の命は始まりに過ぎないのです。
祈り:祈り:主よ。あなたが私の身代りに死んでくださり、驚くべき希望を、あなたの復活を通して与えてくださり感謝します。イエスを死からよみがえらせた力が私に与えられ、死から私たちも引き上げられるのです。
永遠の御腕
申命記33:1-34:12
もし、一生を良い終え方をした人物を上げるとすれば、それはモーセでしょう。「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(34:7)」彼は「顔と顔を合せて(10)」主を知っている人生を送りました。
モーセは神に大いに用いられました。「モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。(12)」
人生において最大の挑戦の一つは、良い終わり方をすることです。良い終わり方の一つは、後継者の計画です。
モーセは良い終わり方ができました。かれはヨシュアを彼の継承者とすることが出来ました。「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。(9)」これは神の油注ぎがひとつの世代から次の世代へうまく受け継がれた希少な例のひとつです。
モーセは死を目前に控えて、最後に部族ごとに特筆すべき言葉をもって祝福しました。たとえば、ベニヤミンに対して「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。(33:12)」と言いました。
部族ごとにそれぞれ祝福し、最後にあたって、モーセはいいました。「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。(26-27a)」
モーセはおそらく師が終わりではないと認識していたでしょう。彼は永遠の神を信頼し、神の御腕が永遠であることを知っていました。
これは死の痛みや悲しみを完全に取り去るものではありません。人々はモーセが死んだとき(34:8a)泣き悲しみました。それは自然で大切な事です。あなたの感情は神によって与えられたものであり、無理やり押し込まなければならないものではありません。
しかしながら、希望がない悲しみと、復活の希望を持っている信者の悲しみとは大きな違いがあります(1テサロニケ4:13)。
私は、今まで、数多くの葬儀や記念会を何年も司式しましたが、その初めの言葉は、偉大で、元気を与え、安息と力に満ちた言葉です。「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。(申命記33:27a)」
祈り:主よ。モーセのように、あなたと近しい関係に生き、永遠の神が私の隠れ場で永遠の御腕に抱かれていることを知ることができますように。アーメン。
H.K