Tokyo Chapel

2019年11月8日

第312日

あなたの血液提供者に出会う

私たちの名づけ子の二番目の子どものハジーは2015年に白血病と診断されました。医学的に、彼女の唯一の希望は適合するドナー(提供者)だけでした。若いドイツ人の男性(匿名)が自分の骨髄を犠牲的に提供してくれました。素晴らしいことに、彼の提供によってハジーの命は救われたのです。ハジーがドナーとどれほど会いたがったかをあなたは想像できますか?(ハジーの新聞記事)

さらに驚くべき方法で、あなたはあなたの血液提供者に出会うことが出来ます。イエスが来られたのは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45)」最後の晩餐で、イエスが杯をお取りになった時、こう言われました。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28,マルコ14:24)」「尊い血(1ペテロ1:19)」は新約聖書全体を通して強調されています。

  • それは赦しを可能にします(コロサイ1:14)
  • あなたをすべての罪からきよめます(1ヨハネ1:7)
  • それを通して、あなたは神に近づくことができる(エペソ2:13)
  • それは平和と和解をもたらす(コロサイ1:20)
  • それはいのちを与える(ヨハネ6:53)
  • それはあなたがサタンを打ち負かすことを可能にする(黙示録12:11)

今日の箇所の中で、私たちはこの意味全体を異なった角度から見ます。


究極の友情のしるし

箴言27:5-14

良い友を持つということは素晴らしい特権です。その中でも最も大いなる特権はイエスとの友情です。イエスはあなたを友と呼び、究極の友情のしるしとしてご自身の血を流されました。イエスは言いました。「人がそののためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」

箴言のこの箇所は、友情の大切さを中心に語られています。「遠くの親戚より近くの友(箴言27:10,MSG訳)」友人の助言は大きな祝福です。「ローションや香水がかぐわしい楽しみであるように、甘美な友情は魂をリフレッシュさせる(9,MSG訳)」あなたの友人に忠誠を尽すことはとても大切です。「あなたの、あなたの父のを捨てるな。(10)」

良いともとは心地よいことだけ言う人ではありません。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。(5)」箴言の作者はさらに続けて「憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(6)」と言います。本当の友情は暗黙の承認以上のものなのです。私は時々手痛い真理をもって私に直面してくれる良い友がいることをとてもありがたく思っています。いつもそれは愛から出たものであり、豊かな感受性と恵みを伴っています。

「傷つける」という言葉はここでは比喩的に用いられています。それは愛から出た良いことのために友に対して、感情的な痛みや悲しみを起こすことになるという感覚です。しかしながら、今日のテーマの光に照らして、私は「傷つける」と言う言葉を字義的に「血を流す」という意味にとらえずにはおれないのです。イエスの場合、彼は私たちの血を流さず、ご自身の血を流されました。「彼は、…私たちの咎のために砕かれた[傷つけられた,NIV訳]。(イザヤ53:5)」イエスの血はあなたのために究極の友情のしるしとして流されたのです。

祈り:主よ。私に友を与えてくださってありがとうございます。とりわけあなたの偉大な友情を感謝します。あなたがご自身の命を投げ出すことを選び、私のために血を流してくださったことを感謝します。


澄みわたる良心

ヘブル9:1-15

「ほとんどの人は、ほとんどの場合、自分の心に重くのしかかる何かを持っているものです。自分が願っていなかったのにしてしまったり、言ってしまった何かです。人に知れたらどうしようという心配が心にもたげる何かです。」とN.T.ライト主教は書きます。
「イエスの犠牲と降り注がれた血潮を知ることはなんと素晴らしいことでしょうか。私たちが信仰と信頼によって受け入れた時に、私たちが、その関係にどのような影を落とすこともなく神に近づくことができるように良心からすべてのしみを洗う力となるという
結果をその血潮は持っているのです。」

ヘブル人への手紙は「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。(7)」という古い契約のもとでの方法について説明します。いけにえの血は殺された動物のいのちを象徴しています。(「いのちは血の中にある」,レビ17:11)それらのいのちはいけにえをささげた人の代わりとなって与えられたのです。

祭司は至聖所に入ることが赦されていませんでした。彼らは幕屋の外で仕事をしました。年に一度の特別な日を除いては、神の御座に近づいて入っていくことは、大祭司でさえ、すべての人に対して禁じられていたのです。

大祭司が入っていくことを許可される時、彼は安全のための十分な備えをしました。しかしながら、このいけにえの血の効果は期限付きでした。毎年、新鮮な血が注がれ、至聖所に新たに入っていかなければなりませんでした。さらには、それらは外面的にはきよめをもたらしましたが、「それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。(9)」

現実に、それはただの「比喩(9)」でしかありません。「可視化された譬え…完全にオーバーホール(整備点検)がなされるまでの一時的な手筈にすぎない(8-10,MSG訳)」それは、それ自身を超えたものを指し示しています。それはキリストの血によって成就したのです。

イエスが来られた時、彼は「ご自身の血によって、すべての人がただ一度で自由にされる代価とすることによって、やぎや牛の血からなるいけにえを回避したのです。(11-12,MSG訳)」こうすることによって、「彼は神と共にご自身の民をこの新しい道に取り運ばれたのです(17,MSG訳)」

この意味は何でしょうか?

  1. あなたは内面も外面もきよい
    イエスはあなたの良心をきよくすることを可能にしたのです。「キリストの血は私たちの全生涯を内面も外面も…聖霊によってきよめてくださいます。(14,MSG訳)」
  2. .あなたは自由にされました
    「キリストは、私たちを行き止まりとなっている努力から自由にし、恥ずかしくない者にするために、それゆえに神のために生きることが出来るように、傷のないいけにえとしてご自身をささげられました。(15,MSG訳)

聖霊とキリストの血は一緒に働きます。ジョイス・マイヤーは書きました。「カルバリの十字架で血が注がれるまで、御霊はペンテコステの日に注がれ得なかったのです。」

祈り:主イエスよ。あなたは私に澄んだ良心を持つことを得させ、神のために生きることが出来るようにしてくださったことを感謝します。あなたが支払ってくださった贖いの代価、そして、私のために注いでくださったあなたの血によって私を自由にしてくださったことを感謝します。


未来を回復する

エゼキエル16:1-63

神はあなたを愛しています。神がなされるすべてのことは、ご自身のあなたへの愛に起因しています。この預言的な寓話において、神のご自身の民への愛は、自分の妻への夫の愛のように記述されています。「私はあなたの面倒を見よう。あなたを着飾り、あなたを守ろう。私はあなたに私の愛を約束し、あなたたとの結婚の契約に入ろう(8,MSG訳)」

主の祝福には「洗い」(9)亜麻布をかぶらせ(10)美しく着飾らせ(11-13)、食べ物を飽き足らせ(13)、名声と(14)栄華(14)も含まれます。

後に続く悲劇的な言葉は、私たち個人にも、あるいは国にも適用できます。「ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行い、通りかかる人があれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。(15)」

罪はしばしば、主よりも他の何かを信頼する不信仰から始まります。それは主よりも他の何かを礼拝すること、つまり偶像礼拝に導きます。そして、罪が増し加わります(26)。それはしばしば意志の弱さから起こります(30)。

罪の結果は不満足(28-29)と神の裁きです(30-34)。エルサレムは不忠実な妻のようでした。偶像に仕え、「自分の子をささげて血を流した(36)」のです。彼女が血を流したので、彼女自身の血もまた流されることになります(38)。この箇所で「血」という語は7回記されています(6,9,22,36,38)。

彼は、彼らの罪をソドムの罪と比べます。彼が行ったことはソドムに関わる通常の性的な罪についてではなく、むしろ、「彼女は、自分の娘と一緒に贅沢に暮らした。― 高慢、貪欲、怠惰。虐げられている者たちや貧しい者たちを無視した。彼らはお高くとまり、みだらな生活をした。(49-50,MSG訳)」と彼は記します。

それらは繁栄した社会に共通する罪です。 ― 傲慢、過食、貧しい者や困窮した者への無関心です。人々は何の必要もなくなる時、彼らは神からしばしば背を向けるのです。彼らの最悪の罪は貧しい人や困窮した人を助けなかったことではありません。

しかし、これらすべてに代えて、神はソドムの将来とこの民の将来を建て直すと約束しました。(53)神は永遠の契約(60)と神が贖いを為すこと(63)を約束したのです。

この「贖い」という言葉は、今日のヘブル人への手紙の箇所にあった「箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。(ヘブル9:5)」にも同じ語が見出されます。贖いはあなたの罪を洗い流すために為されるべき必要な事柄を指し示します。それは大きな二つの事実を語っています。

第一に、罪に対する神の深刻な反応です。第二に、イエスの血を通していけにえを提供した神の愛の大きさです。聖パウロは「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子(ガラテヤ2:20)」と書きました。それは一人ひとりに当てはまります。イエスの血はあなたのために流されました。イエスはあなたの罪を担いました。イエスはあなたの死を死にました。イエスの血はあなたの罪の贖いのためです。イエスはあなたの血のドナー(提供者)なのです。

祈り:感謝します。主よ。あなたの偉大な愛を。あなたが血を流してくださったことを。今日、私が、自分が愛され、赦され、澄んだ良心をもって生きることが出来ることを感謝します。アーメン。

H.K

References

Joyce Meyer, The Everyday Life Bible, (Faithwords, 2006) p. 2045

Tom Wright, Hebrews for Everyone, (SPCK Publishing, 2003) p.116.