Tokyo Chapel

2019年12月23日

第357日

希望をもって生きる方法

1999年7月、ラルフ・クラットホーンは、つい最近脳腫瘍のため亡くした8歳の娘サーシャの死について私たちの教会で語りました。

私はサーシャを病院に見舞ったことをよく覚えています。タクシーに乗って向かう途中、どのように話せばよいのかを神に尋ね求めて深く思い巡らしていました。その時、一つの言葉が脳裏に浮かんだのです。それは「希望」です。

説教の中でラルフはこう話しました。「私の霊の内に、一つの言葉がさく裂しました。それはまるで、突然神が私たちに「希望に生きる」ことについて理解するためにすべてを見せてくださったようでした。それは『私はそれが起こることを望むが、それは多分起こらないだろう』という煮え切らないどっちつかずのものではありませんでした。それは確かで、確信があり、肯定的な希望です。生きるために神が私たちに計画した方法です。」

「私たちの希望は主から出て来るものに置かれるのではなく、主のうちに置かれるものである。」

「サーシャもまた希望がありました。癒されることを含みつつも、それは癒されるなければならないという必要がない、深い希望です。その希望は、神の愛の手の中に確かにあることから来るものです。

彼女の最期の2週間は眼が見えなくなりました。ラルフは言いました。「私はベッドに横たわり、彼女に『サーシャ。天使は見えるかい?』と尋ねたことを覚えています。」

「彼女には話す力は残っておらず、ただ『パパ見えない』とだけ答えました。」

「私は少しがっかりしましたが、もっと大きなお方について尋ねようと思ったのです。それで『イエス様は見えるかい?』と尋ねたのです。」

「『もちろん。私の手を握ってくださっているわ。』」

「彼女が癒されるという夢は潰えました。しかし、私たちは神に失望していません。神は変わりません。神は今も私たちの心に愛を注いでくださいます。私たちは彼女の死を理解することは出来ません。これからも分かるかどうかは怪しいでしょう。でもやがて私たちは知るのです。…これらが希望をもって生きる基本的な原則なのです。」


相応しいところにあなたの希望を置く

詩篇146:1-10

今日、多くの人々が自分たちの希望を間違ったところに置いています。彼らは健康であること、成功した肩書を得ること、長期間にわたる人間関係を得ること、自分のイメージや地位などに頼ろうとします。必ずしもそれらの物事が悪いものではありませんが、どれ一つとして、あなたの人生を築く土台としては十分な確かさを持ってはいません。

本当に大切なことはあなたの希望をどこに置くかということです。「君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。(3-4)」

詩篇の作者はあなたの希望を置く正しい場所を告げています。「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。(5)」もしあなたが、あなたの希望を主に置くなら、この希望は「私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし」ます(ヘブル6:19)。

詩篇の作者はこのしっかりとした希望を主のうちに持ちました。彼は神を賛美し続けています(詩篇146:1-2)。彼は「主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。」と認識しています。そして「とこしえまでも真実を守」るお方です(6)。

希望の神は、少ししか希望がないと思っている人々に新しい希望を与えます。そして、神はあなたや私を同じようにするために召しておられます。

詩篇の作者は、神が特に希望を与える者たちをリストに挙げています。それは、しいたげられる者(7a)、飢えた者(7b)、捕らわれ人(7c)、盲人(8c)、社会の隅に追いやられた者(9a)、死別を経験した者(9b)です。

祈り:主よ。私があなたに希望を置くことが出来ることを感謝します。これが確かな私の魂の錨であることを感謝します。私が、希望を最も必要としている人々にそれをもたらすことができますように。


希望を楽しみに待つ

黙示録14:14-15:8

希望には力があります。それは単なる感覚でも感情でもありません。それは環境に依存するものではありません。本当の希望は、環境には関係なく、物事が良くなっていくという定常的な前向きな態度です。

「希望の皮は厚く、どんなに殴られても耐えるものだ。」とジョン・バニヤン(1628-1688)は書きました。「希望はすべてのものに耐えるのです。もしそれがきちんとしたものであれば、その後に喜びが用意されています。…魂に忍耐を鍛え、冠を楽しむ時が来るまで十字架のもとで長い苦難を耐えるのが希望です。」

私たちが世界を見渡す時、多くの不正があることを見ます。悪い出来事が良い人々に起こるのです。悪はしばしば繁栄しているかのように見えます。今、不正義があるかもしれませんが、ある日すべてが正義になる日が来るのです。神はすべてを正されます。

レスリー・ニュービギン主教の言葉を引用すれば、「クリスチャンの地平線は『彼は再び来られる』そして『私たちは主の到来を楽しみに待つ』です。それは明日かもしれないし、いつかはわかりません。しかしそれは地平なのです。その地平は私にとって原理です。そして希望に満ちたものになりえます。それゆえ、人生は意味あるものであることを見出すのです。」

この箇所で、ヨハネは、最後には物事が「正される」ということを垣間見ています。イエスは裁きの座に着かれます。「私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。(14:14)」

イエスが、この地上での生活にあって、麦と独麦は収穫まで一緒に成長すると言いました(マタイ13:30)。そして「収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。(39)」と言いました。イエスは毒麦が引き抜かれ焼かれることと「正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」という様子について語りました(43)。

すべての悪が跡形なく滅ぼされる激しい裁きがあります。「神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。(黙示録14:19)」

あなたがこれを読むとき、イエスは神の怒りの杯を十字架の上であなたの為に飲み干してくださったことを覚えなさい。そして、あなたはこれらの裁きから救われたのです。この箇所で、私たちは神の裁きが完了する時がどのような様子であるのかを見ます(15:1)。ヨハネは「火の混じった、ガラスの海のようなもの(2)」を見ました。その描写は燃える純粋さと穏やかさを組み合わせたイメージです。平和と正義は両立するのです。

神の裁きは世界をきよめます。悪と堕落を滅ぼし、迫害と圧迫にある者たちを「獣と、その像(2)」から救い出すのです。

出エジプトを果たし、紅海を渡り終えた神の民が大いなる賛美の叫びを挙げたように、今や大いなる賛美の叫びが神に向かって起こります。
「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。
主よ。万物の支配者である神よ。
あなたの道は正しく、真実です。
もろもろの民の王よ。
…すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。
あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」(3-4)

祈り:主よ。感謝します。やがて来るべき日に、あなたはすべてのものを正します。私がそのような偉大な将来への希望を持つことが出来ますことを感謝します。イエスの十字架を通してそれが可能となったのです。


希望を決してあきらめない

エズラ10:1-44

あなたは今まで、余りにもたくさんのことを為し、神があなたのことを赦すにはあまりにひどい失敗が多すぎて、もう度を超してしまったと感じたことはありませんか?この箇所はどれほどあなたが今までしくじったとしても、あなたのために「まだ希望はある」という励ましを与えてくれます。「しかし、このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。(2)」とシェカヌヤはエズラに言いました。

エズラは「神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白」しました(1a)。エズラに加わって「イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が…激しく涙を流して泣いた(1b)」のです。

エズラは神の民の不忠実のために断食をして哀しみました。総数で113人がこの不忠実によって有罪でした。86人は「聖職者ではない信徒」であり、27人は「聖職者(レビ人)」でした。フルタイムの任職されたクリスチャンだからと言って誘惑に遭わないというわけではないのです。

この箇所が特に光を当てていることは、イスラエル人の不信者との結婚についてです。この当時、非ユダヤ人が回心した時に公の儀式があったものだと思われます(6:21参照)。そして、これらの人々はそれらの行いから断たれた者とされていたようです。

エズラは、彼らが伴侶(そのうちの多くはイエスラエルのリーダーシップの一部を担っていました)によって神から遠くに引きずられていったことに関心を持っています。聖書はあなたの結婚相手のことについて慎重に考えるように励ましています。そして、あなたを神から遠くに引き離す者との結婚を避けるべきであると促しています(2コリント6:14参照、それとは対照的に9月3日の日々の糧を参照)。

それでもなお、彼らの妻を離縁すること(エズラ10:19)は不忠実をさらに悪くするように見えます。そして、これは私たちにとって読むのが難しい箇所です。興味深いことは、これは全会一致ではなかったということです(15)。一度、不忠実が起こると、解決は理想には届かないものなのです。新約聖書の中の教会によって同じことが告げられている時、非信者と結婚した者たちには非常に異なる指導がなされています。― 彼らは結婚生活をとどめて、彼らの伴侶に模範と祝福になりなさいと教えているのです。(1コリント7章、1ペテロ3章参照)

祈り:主イエスよ。私たち自身の罪を取り除けてください。そしてコミュニティーの深刻な罪を取り除けてください。―祈り、告白し、泣き、地にひれ伏してあなたに悔い改め、将来不忠実を避けることに過激にまた断固とした態度を持つことが出来ますように。神の民のために、今もなお希望があることを感謝します。私たちの希望は「とこしえまでも真実を守る(詩篇146:6)」主よあなたにありますことを感謝します。アーメン。

H.K

References

Edythe Draper, Draper’s Quotations for the Christian World, (Tyndale House Pub, 1992) p.5912.

Bill Hybels, Holy Discontent, (Zondervan, 2007) pp.147–148.

Lesslie Newbigin in interview with Andrew G. Walker, 1988, transcript in: Andrew G Walker, Note from a Wayward Son: a miscellany, (Cascade Books, 2015) p.268