Tokyo Chapel

2018年2月12日

第43日

神はあなたを救われた

1982年1月13日、エア・フロリダ90便はワシントンD.C.から飛び立ち、ポトマック川に墜落しました。冬で川は凍結していました。墜落は川に架かる橋の近くで起こりました。テレビカメラは一部始終を茶の間に届け、何百万人もがその光景を見ました。ヘリコプターから降ろされたライフ・ベルトが水の中でもがく一人の男性のもとに届きました。彼はそれをつかむと近くにいる生存者のところに泳いで行き、一人の女性に結び付け、彼女は安全に引き上げられました。再びヘリコプターからベルトが降ろされると、繰り返し、繰り返し、この男性は同じように誰かのところに泳いで行き、彼らを救いました。彼は5人を救いましたが、ついには力尽きて、沈んでいったのです。

なぜ、この男性は自分を救うことをしなかったのでしょうか?その答えは、彼は他の人を救おうと躍起になっていたからです。さらにいっそう驚くべきことは、イエスはご自分を十字架につけてまであなたを救うことに躍起になっていたので、イエスは自分を救うことをしなかったのです。

今日、この世界の救い主、イエスにあなたの思いを寄せましょう。そして、どのようにあなたを救ったのか思いを巡らせましょう。


神によって救われた

詩篇21:1-7

あなたは自分自身を救うことができません。ただ神だけがあなたを救います。神はご自身の「尽きることのない愛」のゆえに救うのです。ですから、ダビデのように主を信頼しましょう(7)。

この詩篇はダビデが自分の救いのゆえに神に賛美することから始まります。

「あぁ主よ。王[ダビデ]はあなたの御力を、喜びましょう。そして、あなたの救いの内にあってどんなにか楽しむことでしょう。(1,AMP訳)」

この箇所には救いに伴う多くの恵みが描かれています。

  1. 祈りの答え:「あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。(2)」
  2. 終わりのない祝福:「あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。…あなたは、とこしえに彼を祝福し(3,6a)」
  3. 永遠の命:「彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々をあたえられました。(4)」
  4. 勝利の生活:「御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。(5)」
  5. 喜びと楽しみ:「あなたは、ご自身の臨在の喜びを伴って彼を大いに喜ばせてくださいます。(6b,AMP訳)」

祈り:感謝します。主よ。あなたは私を救われました。あなたの尽きることのない愛とあわれみと多くの祝福を感謝します。今日、あなたを信頼します。


自己犠牲による救い

マタイ27:11-44

旧約聖書の中の神の民はメシア(キリスト)を待望していました。このメシアの姿は「ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる(イザヤ9:7)」王の姿です。

しかしながら、旧約聖書には、もう一つの待望されるメシアの流れがあります。これは、「苦難のしもべ」としてイザヤ書40~55章に見られます。「ほふり場に引かれて行く羊のよう(イザヤ53:7)」な姿が描かれています。世の罪の身代わりとなって、世界の罪を一身に背負われる姿です(5-6)。

誰もこの「メシアなる王」と「苦難のしもべ」が同一人物であることに気づいていなかったのです。しかし、息を吞むような方法でイエスがその御業を成し遂げ、この二つのテーマは合致したのです。イエスこそであり苦難のしもべでもあるのです。

  1. メシアとしての王
    ピラトが「あなたはユダヤ人の王ですか(マタイ27:11a)」と尋ねたとき、イエスは「そのとおりです。(11b)」と答えました。ローマの兵士は、イエスを王のように着飾って、からかってイエスの前にひざまずき「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言いました(29)。

    十字架には「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられました(37)。宗教指導者たちは「自分は救えない。イスラエルのだ。」とののしりました(42)。

    マタイは、イエスが有罪とされたのは、イエスが「(11)」であり、「キリスト(22)」であり、「神の子(43)」であったからだと明示しているのです。

  2. 苦難のしもべ
    イエスは口をひらかず(27:12-14)引かれていく羊のような苦難のしもべ(イザヤ53:7)の預言もまた成就しています。

    祭司長や長老たちがイエスを訴えたとき、イエスは「何もお答えにならなかった。(マタイ27:12)」のですが、ピラトが「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。(13)」と尋ねたとき、「イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。(14)」

    無実の苦難のしもべイエスは、あなたに代わって死にました。それですから、あなたは自由なのです。そのような意味で、バラバは私たち罪人を代表しています。バラバは「名の知れた囚人(16)」でした。「バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。(17)」という問いに、群衆はバラバを釈放しイエスを十字架につけよと答えました(20)。そして、バラバは自由になったのです(26)。イザヤ書の苦難のしもべの預言は成就しました。「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)」

イエスは長く待ち望まれた王でしたが、イエスは他者に対して勝利するような、人々が期待していたような種類の王の王ではありませんでした。むしろ、イエスは、宗教指導者たちや世俗の世界、隣の十字架につけられた強盗からさえも、あらゆる側から、ねたみ、偽の訴え、正しくない批判、不公平、誤解、権威をないがしろにされること、あざけりと侮辱の取り扱いを受けねばなりませんでした。

ピラトはイエスが無罪だと知っていました。彼は「彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていた(18)」のです。(ねたみはしばしば宗教的な罪です。神が自分たちよりもっと用いている人々が現れたなら、ねたみの誘惑が起こるのです。)ピラトはまた別の理由でイエスが無実であることを知っていました。ピラトの妻が夢を見てイエスを「あの正しい人(19)」と呼び、確かにしたのです。しかし、愚かにも彼は妻の助言を退け無視しました。

ピラトは、他の誰かの抗議によって責任を放棄できると考えました。皮肉にも、この男はイエスを死に渡す責任の一端担う者として歴史を通じて覚えられることになったのです。(「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と使徒信条で何世紀にもわたって全世界で人々が告白しているのです。)「この人の血について、私には責任がない。(24)」と言うかどうかはあなたの「責任」なのです。

イエスの血は、鞭打たれ、十字架につけられたときに流されました(24-26b)。再びマタイは大いなる皮肉な状況を描き出します。行き交う人々は「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。(40b)」と言いました。しかし、イエスがこの世から罪を取り去るために来られた神の子羊として死んだのです。傍観者たちはイエスの自己犠牲がなされたことを理解していないのです。彼らは「彼は他人を救ったが、自分を救えない。(42a)」と言いました。

イエスは自分を救うことを意志しなかったので、イエスはあなたも私も救うことができるのです。

祈り:主よ。これらすべてを私のためにしてくださいました。私を救うために、ご自身を救わないことを選んでくださりありがとうございます。


神の子羊による救い

出エジプト11:1-12:51

イエスは弟子たちに言いました。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます(マタイ26:2)。」聖パウロは「…私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられた(1コリ5:7b)」と言いました。

旧約のもとで、最初の過越の出来事が起こったとき、羊の血が神の民を守りました(12:1-30)。新約時代に生きる私たちにとって、イエスの血が私たちの罪を洗いきよめ、永遠の守りの約束となっています(ヘブル9:12-26)。

最初の過越では小羊がささげられました。過越に用いられた羊は「傷のない(出12:5)」ものでなければなりませんでした。それは罪なきイエスを指し示しています。小羊の「血」に強調点がおかれています(7,13,22-23)。傷のない小羊の血がいけにえとして流されました(27)。バプテスマのヨハネがイエスを見たとき「見よ。世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)」と言いました。

小羊の血は神の裁きから民を守りました。それが、「過越のいけにえ(出12:27)」です。それはイエスのいけにえの予型です。

神が過越の際に注意した指導は興味深いです。「その骨を折ってはならない。(46)」はイエスの死に際して、まさに成就しました。十字架にかけられた人の死期を早めるために足の骨を折ることがなされました。イエスの両隣の二人の男は骨を折られました。「しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。(ヨハネ19:33)」

血は家の扉の囲いに塗られました。それは、その家に居る者の死は取り去られたということを示しました。扉の囲いに血を塗ることで神の言葉に従った者たちは、取り分けられたのです。神の子羊であるイエスの血はあなたの上に、私の上に注がれました。過越は私たちに代わって犠牲となってくださったイエスの死がどのようなものであるかを教えてくれるのです。イエスはあなたを救ったのです。

祈り:父よ。私のためにイエスの血を流してくださったことを感謝します。私は全生涯― 私の身体、私の思い、私の意思、私の決断、そして私の家族や私のすべての人間関係、さらに私の経済やすべて私に与えられたもの、私の仕事やあなたへの奉仕をあなたにおささげします。イエスの名によって、私の人生に注がれた子羊の血を通してもたらされる守りを受け取ります。アーメン。

H.K