Tokyo Chapel

2018年2月27日

第58日

6つの聖なる人生の特徴

あなたは、あなたのスケジュールにイエスを合わせようとしますか?それとも、あなたのスケジュールをイエスに合わせて働こうとしますか?

「神は私たちの計画に合わせることは出来ません。私たちが神に合わせなければなりません。」とユージン・ピーターソンは書きました。「私たちは神を利用することはできません。神は道具でも、電器製品でも、クレジットカードでもありません。『聖』という語は、私たちの願望を満たそうとする空想やこの世界に私たちの記念となるような理想郷計画の援助者として神を加えようとする誘惑から神を高い所へと切り離すことです。『聖』は、神はご自身の思いのままに活動しておられ、私たちの経験や想像力を超えた方法で活動しておられるということを意味します。『聖』はそれに触れるものすべてを変革する強烈な純粋さをもって燃やされた生活を指し示しています。」

ヘブル語の「聖(カドシュ)」という語は、元来の意味は「分離する」とか「取り分ける」という意味です。それは、神の「異質性」を言い表すのに用いられたことから来たものです。そして、それは神の本性が、どのように素晴らしい人も事柄も及ぶことができず、その偉大さがどれほどのものであるかということを表しています。神以外の何かに対して「聖」であるという言葉が用いられる時、それは神のために取り分けられたという意味です。あなたの人生が神に明け渡され、あなたの行動が神のご性格を反映している限りにおいてあなたは「聖」です。「聖であること(Holiness)」と「全体的であること(wholeness)」は緊密に関係しています。そして、神はあなたの人生の全体を欲しておられるのです。


聖い美しさのうちに主を礼拝する

詩篇27:1-6

あなたはどのようにして不安なしに人生を送りますか?

ダビデには恐れる理由は山のようにありました。彼は「悪を行う者」,「仇」、「敵」(27:2)に囲まれていたのです。それでもダビデは言いました。「私には不安はありません。誰をも何をも恐れない(1,MSG訳)」「私は赤ん坊のように安らかです。…私は沈着冷静です。(3,MSG訳)」どのようにあなたは反対や攻撃に直面する中で確信を持つことができるでしょうか?

ダビデの生活の中心には礼拝がありました。彼は「一つのこと(4)」に焦点を定めたのです。彼は自分の計画の中心に礼拝を置き、第一にしました。神をあなたの計画にあわさせてはなりません。あなたの計画を礼拝を最優先して立てなさい。

ダビデは礼拝の様子の素晴らしい記述を残しています。ダビデは他の何にもまして「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける(4b)」ことを願いました。そこで、ダビデは「…その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう(6b)」としたのです。

私は「主の麗しさ(4b)」という表現が好きです。ギリシャ語の「麗しい(カロス:新改訳では「すばらしい」と訳されている。)」という語はイエスがなさった事柄すべて(マルコ7:37)を表すのに用いられています。ドストエフスキーはイエスを「無限の美」と記述しました。イエスには外面的な美くしさはありませんでした(イザヤ53:2-3)。イエスは違う美を持っていたのです。それは「聖である美」です。

あなたが主を求め、主を礼拝し、主の麗しさを仰ぎ見る時、主はあらゆる動転、恐れ、誘惑を超えたところに私たちを引き上げてくださ「それは、ただ静寂があり、やかましい世の雑音から守られた場所…神は私を引き落とそうとする者どもよりも私を頭と肩の分より高く抜きんでて保ってくださる。(詩篇27:5-6,MSG訳)」

祈り:主よ。一つのことをあなたに求めます。私の命の日の限り、あなたの住まわれる処におらせてください。あなたの麗しさを見るために。


聖である生活のうちに主に仕える

マルコ9:33-10:12

私たちは他の教会や他のキリスト教の働きに対して、どのような態度を持つべきでしょうか?

イエスに従う者たちの間の分裂は非常に速い段階で始まりました!弟子たちは、誰が一番偉いかを議論し始めました(9:33-34)。この状況の中で、イエスは「聖い生き方」の特徴について彼らに話されました。

  1. 謙遜
    イエスはナンバーワンになるために競い合うのを止めなさいと言いました。人と比較することはいつも誘惑になります。妬みやライバル心はとても危険です。イエスは、もしあなたが競おうとするなら、一番後ろにならなければならないと言いました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(35)」リーダーは謙遜に仕えるように召されているのです。

  2. 「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。 『だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』(36-37)」すべての人を愛し、受け入れましょう。たとえ、その人がとても若い、弱い、貧しいなどあなたに何も出来なくてもです。あなたがそうするなら、それはイエスを愛し、受け入れることなのです。
  3. 寛容
    ヨハネが、イエスの名によって悪霊を追い出した他のグループを「仲間ではないので、やめさせました(38)。」と報告した時、イエスはやめさせることはありません。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(38-39)と教えました。私たちも「仲間ではない(38)」という理由で他のクリスチャン、他の教会、他のキリスト教団体を退けるような間違いを犯さないようにしましょう。
  4. 自制心
    私たちは時々、自分自身の生活における罪は大目に見て、他人の罪には厳しいということがあります。しかしイエスは、人の罪をあげつらうのではなく、自分が罪をおかさないように注意することを教えています(42-49)。

    もちろん、イエスは文字通りに自分を傷つけよと言ったのではありません。むしろ、私たちが為すべきこと(手,43)、私たちが行く場所(足,45)、私たちが見るもの(目,47)を比喩的表現として用いたのです。罪に対して妥協せず、過激なほどに自制しましょう。分裂させることはしばしば罪です。イエスは私たちを断固とした聖である生活を生きることへと召しておられます。

  5. 平和
    イエスは彼らに議論せず平和を保つように言いました。イエスは弟子たちが互いに寄り添い、言い争うことをやめて「互いに和合して(50)」暮らすことを願ったのです。イエスは後になって、世が信じるために私たちが一つになることを祈りました(ヨハネ17:21)。
  6. 忠誠
    イエスは弟子たちに結婚における忠誠を教えました。イエスは、モーセが離婚を認めたのは命令ではなく譲歩であることを示しました。神が意図したのは、結婚が終生にわたる忠誠であるということです。夫と妻は極めて一致して一体となるのです。「ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです(マルコ10:8)。これは、新郎新婦が手を重ねて交わす契約の結婚式における素晴らしい式文の原型です。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(9)」

祈り:主よ。聖霊の力によって、聖である生活を生きることができますように。謙遜と愛と寛容と自制と平和と忠誠を身につけることができますように。


主が聖であるように聖である

レビ1:1-3:17

聖くない世界の中で、どのようにして聖い生き方を保持することができるのでしょうか?

イスラエルの民は、約束の地に入るにあたって、ユージン・ピーターソンが言うところの「物語の休止」つまり、「『聖』であるということがさっぱり分からないような文化の中で『聖』である生き方を身につけるため、入念な準備の時」が与えられたのです。

ユージン・ピーターソンは記します。「第一に、私たちの生活の細々したすべては聖である神の臨在によって影響をもたらされるべきです。」あなたは毎日の生活のすべての面で聖であることに召されているのです。ユージン・ピーターソンは続けます。「第二に、神は、いけにえ、祭礼、安息日など、ご自身の聖である臨在へと私たちを関わらせ、すべてを臨在へと持ち運ぶ方法を与えます。そして、聖である火炎のうちに変えられるのです。」

レビ記に記されている言葉は現代人の耳には奇妙に聞こえます。律法は完全ないけにえを要求しました。「傷のない雄牛(レビ1:3)」いけにえを通して、「贖い(4)」がなされたのです。象徴的に、雄牛、やぎ、羊(たとえば、3:2,8)の頭に手を置くことによって、人の代わりにいけにえの上に罪が移されたのです。いけにえの血は特別に重要でした(1:5,3:2,8,13)。

新約聖書の光によってのみ、これをすべて理解することができます。ヘブル人への手紙の作者は、私たちに「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)」と告げます。彼は私たちに律法は「かたどったもの(23)」であり「後に来るすばらしいものの影(10:1)」と告げているのです。言い換えるならば、これはただ、さらに偉大でさらに素晴しい事柄の絵の予表であるということです。

彼は「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、…雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。(1,4)」と記しています。

ですから、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。(10)」という結果につながるのです。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(14)」私たちは完全な赦しを受け取ったのです。そして、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(18)」

ですから、新約聖書は、私たちに、もはやいけにえをささげる必要はないということを告げているのです。しかしながら、これらはイエスがささげられた背景を形作っており、それがどれほど驚くべきことであったのかという理解の助けとなります。聖である生活は、あなたの信仰をイエスがあなたのために為された御業と主の聖霊にあなたの聖である生活を生き始めるためにあなたの生活にお招きすることによってスタートするのです。

神があなたのために為されたすべてのことに感謝し、あなたの身代りにイエスがいけにえとなってくださったことによって、あなたのからだを「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1-2)」

祈り:主よ。感謝と賛美に絶えません。私は私のからだを生きた供え物としてささげます。私の内におられる聖霊によって、あなたが聖であられるように、わたしも聖となしてくださいますように。アーメン。

H.K

References

Eugine Peterson, The Message: ‘Introduction to Leviticus’, (NavPress 2007)