Tokyo Chapel

2019年2月17日

第48日

良心を研ぐ

イエスは今日の箇所で「…してよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。」(マルコ3:4)と問われました。

私は無神論者でした。私は自分の身体と心を信じ、そして、私たちが生まれてきた環境はすべて自分の行動によって決定づけられると信じていました。私にとって、論理的には、もし神がいないならば、倫理道徳の完全な基盤というものはないと思えました。ですから、そのような論理に従えば、完全な「善」や「悪」というものは存在し得ません。

しかし、もう少し掘り下げれば、私は何となく「ことの善し悪し」というものがあることを知っていました。神を信じてはいませんでしたが、善悪という言葉を用いていました。しかしながら、私がイエスと出会うまでは、私は神が道徳的な世界を創造されたということを理解していませんでした。聖書には、そして、特にイエス・キリストの人格には、善悪の本質が啓示されています。

神は私たちに良心を与えられたので、ものの「善し悪し」を知ることができるのです。しかし、私たちの良心は鈍ってしまう可能性があります。それは客観的な真理によって研がれる必要があるのです。


悪を善と見間違わない。

箴言5:1-14

すべての罪は偽りを含んでいます。そして、それはしばしば悪を善と取り違えています。うわべの魅惑というのもがあります。「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。(5:3)」しかし、最後には彼女は「苦よもぎのように苦く(4)」、「死(5a)」と「よみ(5b)」へと誘う道に続いているのです。

これらの節は性的な誘惑と危険性の両方をとらえています。私たちは、性的な内容が増えつつある社会に生きています。インターネットには性的な刺激が溢れ、私たちを取り囲んでいます。この世は人を性的な「満足」に奔走させようと働きかけます。

神は人間を異性に魅かれるものとして御創りになりましたから、それは神の与えた祝福です(創世記2:24)。しかし、それが間違って用いられると、破壊と傷をもたらします。この箇所は性的な罪に魅かれることと、それに惑わされないことを警告しているのです。

あなたを後悔させるような道から遠のきなさい。「距離を保て…彼女の隣から離れよ(8,MSG訳)」もしこの助言を無視するなら、私たちの人生を無駄にしてしまい、「後悔で埋め尽くす(箴言5:11,MSG訳)」ことになるでしょう。誘惑を面白半分に扱ってはなりません。誘惑から自由になりなさい。

ジョイス・マイヤーは記しています。「知恵は私の友達。私たちが後悔して生きることがないように助けてくれる。この世で最も悲しいことは、やがて年老いた時に自分の人生を振り返って、自分がしたこと、しなかったことについて後悔することしか残っていないと言うことだと思う。知恵は私たちに後になって幸せになることができることを今選択させる。」

祈り:主よ。私を罪に導く一切のものから離れ去るための、知恵ある警告に聴き従うことができるように助けてください。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)」


善か悪か?:イエスについて決断する

マルコ2:18-3:30

イエスとは誰なのか?という問いに対して、私たちは皆、答えを出さなければなりません。悪人なのか、狂人なのか、それとも神なのか?これは今に始まった問いかけではありません。イエスの当時の人々もその3つの選択肢から決断しなければなりませんでした。

イエスは単に偉大な宗教指導者というのではありません。イエスご自身が明らかにそれ以上の存在であることを認識しておられました。イエスは圧倒されるような主張をされました。マルコの福音書の中の比較的短い部分にさえ私たちはそのような主張をたくさん見ることができます。

C.S.ルイスは次のように指摘しています。「もしただの人でイエスが言ったようなことを言う人がいたとしたら、それは偉大な道徳の教師だとは思われないだろう。その人は気が狂っているか、もしくは、『地獄の悪魔』に違いない。あなたは、自分自身の選択をしなければなりません。」さらにC.S.ルイスは「しかし」と文章を続けます。「イエスを偉大な人間の教師だというような恩着せがましいナンセンスな結論は勘弁してほしい。彼はそのような選択肢には当てはまらないし、また彼もそのように意図していない。残されているのは3つの選択肢しかない。イエスは悪人か、狂人か、あるいは真実を主張されたかだ。

  1. イエスは悪人か?
    律法学者たちは、イエスが「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ(3:22)」と言いました。彼らは「イエスは、汚れた霊につかれている(3:20b)」とも言いました。
  2. イエスは狂人か?
    イエスが「気が狂ったのだ(21)」という人もいました。
  3. イエスは神か?
    イエスは暗示的に自らが「花婿(2:18-19)」であり、「安息日の主(28)」と表現しました。また悪霊はイエスを「神の子(3:11)」と呼びましたが、イエスはそれを否定せずに、「ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた(12)」のです。

イエスが悪人か、狂人か、あるいは神かという決断は大きな結果の違いを生じます。

三年間をともにすごしたイエスの弟子たちは、イエスは、ことばが人となり、神としての自覚をもった唯一の神の子(ヨハネ1:14)であると結論を出しました。イエスは弟子たちに、私たちに語りかけられるように、「ともにいる」ようにと最初に言われ、ご自身のメッセージをこの世界に取り運ぶように言われるのです(マルコ3:14-15)

イエスはご自身のことを悪として表した人々に対して言いました。「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(29)」この節は多くの人々に大きな悩みをもたらします。しかし、誰もこの罪の責めを受けるということを心配する必要はありません。悔い改めた者は必ず赦されるからです。実に、この問題に悩んでいる人(つまり、悔い改めたいと願っている人)であれば、それが、その人はこの罪を犯してはいないという証拠だからです。

ここで言われていることは、文字通りの字義的な意味よりも、心の態度を定めるということなのです。イエスは彼らが罪に定められるということを言いたいのではなく、彼らがはらんでいる危険性を警告しているのです。それは普通の人々のことではありません。正式に認定された神の民の神学的教師についての記述なのです。彼らは神の言葉に日々接していたのです。

この罪は善を悪とし、悪を善とみなすような態度です。そのような人は彼らは悔い改めることも赦されることも出来ないというところまで落ち込んでしまったのです。そのような範疇に「イエスを裏切った」「イスカリオテ・ユダ(19)」が入るのです。

新約聖書が私たちに保証しているのは、悔い改めて、イエスに立ち返る者は誰でも赦されるということなのです。

祈り:イエス様。あなたを今日、礼拝します。あなたは花婿、私の主、そして神の子です。


善に努め、悪を妨げる。

出エジプト21:1-22:31

神の民は、彼らの社会のために規則が与えられました。律法の中のいくつかは私たちには奇妙に思えたり、どぎつく感じるものがあります。しかし、他の古代の人々の法と比べると、それは至って人道的であり、ある原則は今日にも適したものです。

これらの律法は悪を制限するように工夫されています。たとえば、彼らは自己防衛の権利は持ちましたが、過度な自己防衛は抑制されました(22:2-3)。また「目には目を。歯には歯を。」(21:23-25)というのも、受けた損害と等価の報復しか許さないという抑制が意図された言葉なのです。

律法は明らかに裁判のために造られたもので、個人的なもののためではありませんでした(申命記19:18-21参照)。それは裁判や訴訟のガイドとなるものです。それらは、死刑に相当するような場合を除いて、字義的に用いられませんでした。律法は判決の上限を与えるものとみなされていました。罰は通常、罰金などに置き換えられて判決されました。

古代の読者にとって、奴隷の権利について強調されていることは、革新的なことでした。主人は最大6年で奴隷を解放しなければなりませんでした(20,26-27)。それは古代社会において特に弱い立場にある女奴隷に対しても見られることです。彼女たちは男の奴隷と同様には扱われませんでしたが(7)、結婚したり、贖われることが許されました(8-11)。

同時に、古代イエスラエルの律法は、良いことに言及しています。神は言いました。「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。」(22:31a)と語られました。そして、在留異国人(21)、やもめみなしご(22)を虐げたり、悩ませてはならない。また明日の箇所になりますが、貧しい者を正しく裁かなければならない(23:6)と命じています。個人は復讐したり仇打ちをしてはならないと教えています。むしろ、彼らは「あなたの隣人をあなた自身のように愛する(レビ19:18)」ということを教えられました。

律法は共同体を建て上げる助けとなりました。その共同体は相互自律し、責任を共有することを土台とするものです。その他の奇妙に思える規則も、お互いに属し、互いをケアし合えるかを教えるための助けとなるものだったのです。これは、私たち皆が学ばなければならないレッスンです。特に、一人ひとりが別個に、孤立した環境で生きる21世紀には必要な事です。私たちは守らなければならないから規則やルールに従うというのではなく、神の似姿に造られた人間として、お互いを取り扱うことの助けとなるのでそれらに従うのです。

祈り:主よ。悪を避けることができますように、そして、良いことをなさせてください。今日出会う人を神の似姿に造られた存在として扱うことができますように。愛と尊厳と、尊敬をもって。アーメン。

H.K

References

C. S. Lewis, Mere Christianity, (HarperCollins, 2001), p.50

Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013), p.965