2019年5月27日
第147日
一致の力
ブーヘンヴァルト強制収容所では、キリスト教信仰がそのイデオロギーを脅かすものとして見られていた全体主義体制によって56,000人の人々が死に追いやられました。収容所の一角には、特に危険なまたは重要だと思われる囚人のために取り置かれていました。ルター派の牧師、ポール・シュナイダーは「ブーヘンヴァルトの説教者」と呼ばれ、この特別な区域に収監されていました。部屋には小さな窓しかありませんでしたが、ゲシュタポが監視する中、そこから大声でイエス・キリストの福音を宣言していました。
ユダヤ人や「有害分子」と呼ばれていた人たちを代表して活動していたカトリックの司祭、オットー・ノイルーラーは、ナチスの将校たちにとって脅威となっていましたが、彼もまたこの区域に収監されていました。彼もまた、逆さ吊りにされて殺されるまで、強制収容所の中で、イエスの名によって働きをなしていました。
一人はカトリックでもう一人はプロテスタントでしたが、一致して、この二人は彼らの共通の主、イエス・キリストをともに証ししたのです。一致はとても力強いものです。
民と地
詩篇68:7-14
ダビデは出エジプトを思い起こしています。シナイ山とカナンの征服です。歴史の中でもユダヤの民が純粋に一致して成し遂げた極めて卓越した業といえます。
この箇所で描かれているのは、祝福や一致が究極的には神から来るもおであることを認識することにつきます。この詩篇は神が為してくださったすべての業のゆえに神に感謝と賛美を捧げています。神が導いてくださったこと(7)、備えてくださったこと(8-9)、主の寛大さ、主の正義(10)、そして勝利(11-14)。
神は民を約束の地へと導くお方でした。今日でも、まさにこの同じ領域において、一致の挑戦は大いなることです。中東の平和を計ることは、私たちの世界が面している大いなる挑戦の一つとして残されています。
祈り:主よ。すべての人に向けられているあなたの愛を感謝します。戦火の中に置かれている中東の国々のために平和と一致を祈ります。あなたこそ、一致の源であり基礎であることを感謝します。
教会と世界
ヨハネ17:6-26
福音書の中には度々イエスが祈っておられる姿が描かれます。しかし、どれくらいの時間祈ったのかということが記されることは稀です。十字架を目前に控えて祈られたイエスの偉大な祈りに、私たちはイエスの優先順位を知るのです。
イエスは弟子たちのためだけでなく、やがて信じることになる人々のためにも祈っています。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。(20)」と。
この祈りは一致をテーマとしています。イエスはご自身の弟子の一致だけを祈ったのではなく、教会の一致のために祈られたのです(20)。イエスは三位一体の一致のような一致のために祈ります。「それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(11)」と。
- 一致の動機はイエスの命令
イエスは完全な一致のために祈りました。それは、世が信じるようになるため(23)であり、神の一致を知るようになるためです(21,24)。信仰の妨げとなる一番大きなものの一つは教会の中の不一致です。政治の世界では、政党内での不一致が起こった瞬間に、支持を失ってしまいます。世俗の世界でこのようなことが起こるなら、教会においてはなおさらです。イエスはご自身の弟子たちを「彼らが一つとなるために」守り、保たれた(12)と語りました。今、イエスは悪い者から聖め別たれた者たちを「悪い者から守ってくださるように(15)」祈ります。
教会同士が互いに敵対するときに、人々は興ざめします。それとは逆に、教会が一致するとき、それはとても魅力的です。それは喜びの泉です。イエスに従う者たちは悲観することはありません。イエスは「彼らの中でわたしの喜びが全うされるために(13)」祈られました。喜びは一致によってもたらされます。不一致は喜びを奪う者です。一致は強力です。 - 一致をもたらすのはイエスの御霊
イエスはあなたの聖めのために祈ります。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」とイエスは祈りました。聖めは真理からもたらされます。真理は神の言葉のうちに見出されます。神の言葉をあなた自身にしみ込ませることの大切さの理由がここにあるのです。
あなたが聖なるお方、あなたのうちに住んでくださる真理の御霊を歓迎するとき、聖さが訪れます。
イエスは「わたしが彼らの中にいるためです。(26)」と祈ります。これは新約聖書の中の最も尋常ではない真理です。聖霊によってイエスはあなたの内に住むために来てくださるのです。この同じ聖霊が、あらゆる教会、あらゆる教団教派のすべてのクリスチャンのうちに住まわれるのです。聖霊は私たちを一致させます。 - 一致のしるしはイエスの愛
「それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり(26)」とイエスは祈りました。父なる神が、ご自身の子なるイエスのために持たれた愛よりも高い愛をあなたは持ち得るでしょうか?あなたのためのイエスの祈りは、あなたの内にある父なる神がイエスのために持たれた同じ愛をもって、キリストのからだの一部分である他のクリスチャンをあなたが愛すべきであるということです。 - 一致の手段はイエスを見せること
時々、人々は「目に見えない一致」について語ります。しかし、イエスは観念的な一致を祈ったのではありませんでした。そして「大体一致している」ようになることを祈ったのでもありません。イエスは「完全な一致がもたらされ、あなたがわたしを遣わされたことを世が知るようになるため(23)」祈られたのです。イエスは教会が完全に、見える形で一致することを望んでおられます。
やがてある日、それは起こります。(エペソ1:9-11)その時には、橋を架けるように、主の教会の異なる部分からの他のクリスチャンと一緒になって労するのです。心と思いがイエスと一体となって組み合わされるように、私たちの目に見えない一致が見える一致となるのです。ブーヘンヴァルトで見ることが出来たように。
祈り:主よ。聖霊が私たちを一緒に導いてくださる方法のゆえに感謝します。私たちが目に見える一致のしるしが増し加わり、この世が信じるようになることができますように。
親友とライバル
1サムエル19:1-20:42
政治、ビジネスそして教会生活においてでさえ、非常に親しかった二人が同時に同じ働きのために競い合う結果になることがあります。私たちの大志と私たちの友情の間にある緊張をどのように取り扱うべきなのでしょうか?
ダビデとヨナタンとの間の友情は格別でした。また王座を継ぐ者としてはライバル同士でもありました。お互いに嫉妬したり、憎みあったりする理由はいくらでもありました。しかし「ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していた(20:17)」のです。このような愛をイエスは命じておられます。それは人に対して持つことのできるもっとも優れた愛です(マタイ22:39)。
一方、サウルは嫉妬に燃えました。嫉妬は私たちが他の人々と自分を比較することから、すなわち、私たちが成し遂げたことを私たちの周りにいる人が成し遂げたことを比較することから始まります。嫉妬には一瞬にして人から正気を奪う力があります。ヨナタンが彼の父サウルに、ダビデはサウルに悪いことはしておらず、大いに貢献したこと、そして無実の者を殺すことは全く間違ったことになると指摘したとき、サウルは言いました。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」(1サムエル19:6)
論理的で理にかなった議論は嫉妬に燃えた人にその時点では納得を与えるかもしれません。しかしながら、嫉妬はひとたびその人をつかむと非常に強力です。サウルの場合のように、それはとどまることを知りません。シェークスピアのオセロのセリフにもあります。「お気をつけ下さい、将軍、嫉妬というものに。それは緑色の目をした怪物で、ひとの心をなぶりもの にして、餌食にするのです。」
ダビデとヨナタンは互いに愛し合っていました。「サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。(1)」そして「ダビデの良いことを話し(4)」ました。ヨナタンはダビデに「あなたの言われることは、何でもあなたのためにしましょう。(20:4)」とまで言っています。友に対するなんと偉大な献身でしょうか!彼らの互いの献身は「契約(16)」という形であらわされました。それは彼らの子孫にまで及ぶ(42)ものでした。そしてヨナタンはダビデの家と契約を結びました。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからです(16-17)。
嫉妬の結果、 サウルはヨナタンに怒りを燃やします(30)。ヨナタンは自分の父親がダビデを殺そうとしていることを知りました(33)。そして、ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、食事をとらなかったのです(34)。
サウルの怒りとヨナタンの怒りの間には違いは、サウルの怒りは根拠のないものであり、嫉妬によって生み出されたものであるということです。ヨナタンの怒りは義なる怒りです。「父がダビデを侮辱したので、ダビデのために心を痛めたからである。(34)」怒りは必ずしも悪ではありません。しかし、あなたはその動機を注意深く確かめる必要があります。
ダビデとヨナタンはお互いの愛情を見せることを恥じたりしませんでした。「…ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。(41)」泣くことは弱さを見せることになりますが、彼らは恥じませんでした。泣くことをとおして、互いの愛を表現したのです。これは友情、愛と一致の力強いモデルです。親しい友情とは別に、結婚も孤独に対する神の答えの一つです。
ヨナタンが、王座に就くライバル候補であったという事実にもかかわらず、全き忠誠をダビデに示し、支援し、保護することが出来たのは、この愛と友情のゆえなのです。
祈り:主よ。私の友や隣人を自分のように愛することが出来るように、またそう意思することができるように助けてください。人々が愛、愛情、そして教会の交わりのうちに孤独の答えを見出すことができますように。
H.K