Tokyo Chapel

2019年12月9日

第343日

解かれた啓示

マーティン・シーンとマーロン・ブランドが共演したベトナム戦争を描いた「地獄の黙示録(Apocalypse Now)」という映画が1979年に制作されました。ここで用いられている「黙示録(apocalypse)」という言葉は「破滅」というような言葉だと多くの人々に誤解されています。

ギリシャ語の「アポカルプシス(apokalupsis)」は「啓示(黙示録1:1)」という意味があります。この言葉は2つのギリシャ語の単語、「~から出る(apo)」と「隠された(kalupsis)」から成っています。この言葉の実際の意味は「開示される」ということです。ヨハネの黙示録の中で、ベールが取り去られ、奥義であったもの鍵が解かれるのです。

「イエス・キリストの黙示(1)」には二つの意味が重なっています。第一に、それはイエスによって与えられた黙示です。第二に、それはイエスを明らかにする黙示です。つまり、イエスは旧約聖書の中に隠されており、新約聖書によって明らかにされたお方なのです。イエスはもはやベールで被われてはいません。私たちは私たちへのご自身の大いなる愛と悪に打ち勝った勝利を明白に明らかにされているのです。


義なる神の啓示

詩篇140:1-5

ダビデは悪者たちから救い出されるように祈ります。ダビデは、悪をたくらみ(2a)、悪い言葉(3)、悪い行い(4)について語ります。

悪者とは他の誰かのことだけではありません。それは自分自身についても言えることです。私たちは皆、悪い考えを持ち、人を傷つけ、悪いことを行います。私たちは皆、義なる者であることにしくじるのです。

使徒パウロは書きます。「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10)」そして続けてこの詩篇の節を用いて彼は描いているのです。「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり…(詩篇140:3、ローマ3:13)」

しかしパウロは、今や神からの義が「啓示された(ローマ3:21,GNB訳)」と説明します。この神からの義はイエス・キリストにある信仰を通して、信じるすべての者に与えられるのです(22)。

祈り:主よ。イエス・キリストにある信仰を通して、私たちにもたらされたあなたの義が啓示されたことを感謝します。


イエス・キリストの啓示

黙示録1:1-20

この書物は、使徒ヨハネが礼拝している時に来られたお方、イエスについての彼の啓示の記録です。ユージン・ピーターソンは「私たちは多次元的なクリスチャンの礼拝の行為に参加する者として加わったのです。」と記しています。ヨハネは「礼拝のことを考えており、抜きん出て礼拝に関心を寄せています。」神はヨハネに、彼は礼拝している時に語り掛け、そしてイエスが啓示されたのです。

ヨハネの黙示録は小アジアにある7つの教会に宛てて書かれました(11)。「神のことばとイエスのあかしとのゆえに(9)」パトモス島に幽閉されていた使徒ヨハネによって、それらの教会は牧会されていました。ヨハネは「七つの金の燭台(12)」を見ました。彼は私たちにそれは「7つの教会」を表していると告げています(20)。

という数字は聖書では完全や完成を表す数字です。ですから、これは全教会を意味していると取ることができます。それはあなたや私に宛てて書かれたものです。イエスはヨハネに彼ら見たものを書き記すように召されました。ヨハネは「奥義」を開封し始めたのです。「七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。(20)」あなたを含む、すべての教会はそれぞれ御使いたちがいることをこれは示唆しています。イエスはすべての教会をご自身の手の内に保っておられるのです。

ヨハネは、霊的な現実の特徴を啓示するのに、詩歌、歌、たとえ、幻、象徴、絵を用います。黙示録のある部分は理解することが極度に難しいのです。しかし、それを解き明かしていく価値があります。この書は、それを読む者たちが祝福されるだろうと特別に言われている聖書の中で唯一の書です。「この読者はなんと祝福されることか!これらを声に出して読むのを聞く者たち、守る者たちはなんと祝福された者であることか(3,MSG訳)」

初代のクリスチャンたちは安息し礼拝する日を土曜日(安息日)から日曜日にすでに変えていたようです。黙示は「主の日(10)」に始まりました。主の日とは復活の日であり、言い換えれば日曜日で。

ヨハネの黙示録はまるで聖書全体のようです。その中心にイエスがあります。つまり「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト(5)」です。黙示録の詳細にはまり込んでしまうことは容易いことですが、鍵はイエスに焦点を当て続けることです。この章の中心のメッセージは明解です。― イエスは勝利した!

「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方(5b-6)」です。イエスを通してあなたは愛され、あなたを縛っていた鎖を解き引き上げてくださったのです。

あなたの価値の感覚はあなたが何をしたかや、あなたがどのように見えるか、あるいはあなたが人からどう見られているかに基づくものではありません。あなたには大いなる価値があり貴いのです。なぜならイエスはご自身の血をあなたのために流すほどにあなたを愛しておられるからです。

イエスは再び帰って来られます。それは密かに起こるのではありません。すべての人々がそれを見るのです。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。(7)」あなたは勝ち組の中にいます。イエスは帰って来ます。そしてあなたは主とともに永遠に楽しむのです。

ヨハネは「人の子のような方(13)」を見ました。これはイエスが好んでご自身を言い表すときに用いた表現です。ヨハネはイエスが「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた(13)」ご自身のすべての主権と栄光の内にあるのを見ます。ヨハネはイエスの内にご自身のすべてのきよさと時間の超越性を見ます。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。(14-15)」

ヨハネは主の顕れのすべての輝きを見ます。「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(16)」時々、人々がイエスの臨在の内に時間を過ごす時、彼らの顔は輝くように見えます。これはイエスご自身がどのように見えるかを私たちに味合わさせてくれます。

イエスの啓示に対するヨハネの反応は礼拝でした。ヨハネは「この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった(17)」のです。イエスはご自身の手を彼の上に載せて言います。「恐れるな。わたしははじめであり、わたしは最後です。わたしは生きています。わたしは死にます。しかし、わたしはいのちに帰ってきます。そしてわつぁいのいのちは今は永遠です。わたしの手の中にある鍵を見なさい。その鍵は死の門を開けることも閉じることも出来ます。それらは神の神の門を開けることも開けることも閉じることも出来るのです。

祈り:主イエス・キリストよ:私はあなたの前に今日ひざをかがめて礼拝します。わたしは今日の私の恐れを委ねます。私があなたの御手の中に究極的に守られていることを感謝します。


救い主の啓示

ゼカリヤ9:1-11:17

なぜ、ある人々はそんなにも屈託なく前向きなのでしょうか?それは小さな一つの言葉「希望」がすべての支えとなっています。イエスはこの箇所の中で啓示されているように、囚われ人を「彼らの希望のない独房(9:11,MSG訳)」から自由にします。

イエスはあなたに希望を満たします。あなたの現状がどんなに悪くても、希望をあきらめてはなりません。私たちは「望みを持つ捕らわれ人(12)」なのです。ジョイス・マイヤーは書きました。「本当の希望は、物事は良くなっていくという定常的な前向きな態度であり、それは今何が起こっているかが問題ではありません。」

ゼカリヤの言葉は成就の幾つかの段階があります。それは9章の歴史的成就(アレクサンダー大王とマカベヤ家を通して)よりはるかに偉大なもので、それはイエスに啓示された成就です。

「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(9)」これらの言葉は棕櫚の聖日(パーム・サンデー)に、イエスがろばの背に乗ってエルサレムに入城した時に成就しました(マタイ21:1-5,マルコ11:1-11)。

ゼカリヤは謙遜な、義なる王が救いをもたらすために来られることを予見しました。彼は心優しく、謙遜で、外見的には貧しい人です。彼の国は従来の戦いの手法によってもたらされはしません。彼は軍事的な王ではないのです(ゼカリヤ9:10)。

彼はユダヤ人と異邦人に平和をもたらします(10、エペソ2:17参照)。彼の支配は海から海へと拡大します(ゼカリヤ9:10)「あなたとの契約の血によって(11)」あなたは大いなる祝福を経験するでしょう。

彼は捕らわれ人を解放します(11,イザヤ61:1,ルカ4:18参照)。彼はあなたに安全をもたらします。「望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。(ゼカリヤ9:12)」彼はあなたに大いなる祝福をもたらします。「わたしは二倍のものをあなたに返すと。(12)」「わたしはあなたを勇士の剣のようにする。(13、黙示録1:16参照)彼は救いをもたらします。(ゼカリヤ10:16、同様にルカ12:32、ヨハネ10:1-16参照)。

これらのゼカリヤの預言の中にはその他にも多くの素晴らしい約束があります。それらの中には「かしら石(ゼカリヤ10:4)」そして群れを牧することを「喜び」「楽しむ」「良い牧者」(11:7)などがあります。「愚かな牧者」と非常に対照的にここに描かれています(15)。私たちは「失われた者を世話し」「若者を探し」「傷ついた者を癒し」「健康的な食事を与える」(16)ことに召されています。

私たちはまたこの箇所にユダの裏切りの予表を見ます。「銀三十シェケル(12)」はイエスの首にかかった値段です(マタイ26:15参照)。

イエスの人生、性格、使命、死、復活、勝利のほぼすべての詳細は旧約聖書の中に幾つかの方法で予表され、新約聖書に啓示されているのです。

祈り:父よ。私たちの救い主、主イエス・キリストの啓示のゆえにありがとうございます。

H.K

References

Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) p.1459.

Eugene Peterson, The Message Bible, ‘Introduction to Revelation’ (NavPress, 1996) p.1674.