愛の警告
最近は、様々なものを買うと、あらゆる使用上の注意が記されています。そのうちのいくつかのものは少し変な感じがするものもあります。たとえば…
サンズベリーのピーナッツ: 警告 ― ナッツ 含有
ナイトロール・ナイトタイムの睡眠剤: 警告 ― 眠くなることがあります。
家庭用、日曜大工のドリル: 歯科医が使用するためのものではありません。
うんざりするほどの警告はほとんど不合理なように思えるので、それらを無視することがかえって危険です。しかし、すべての警告が変だというわけではありません。
1991年3月13日、霧の濃い日、イギリス史上最悪の交通事故が発生しました。10人が死亡し、25人がけがをする災害がM4道路で起こったのです。大事故の真っただ中で、一人の男が英雄として讃えられました。アラン・ベートマン氏は事故で損傷した自分の車の上に登り、後続の車が追突しないように警告を発したのです。すべての車が警告に感謝したわけではありません。あるドライバーは彼のそばで警笛をならして、そのまま前方の車に追突していきました。
他の車へのアランの警告は単に英雄的であるだけではありません。それは愛の行動です。イエスご自身はしばしば、目前に起ころうとしている危険に警告を発しました(たとえば、マタイ7:13,19,26-27参照)。イエスは、彼らに真理を告げることによって人々に警告することが長い目で見れば、もっと愛することになるということを知っていたのです。
神はあなたを愛しています。神はあなたを傷つけたいのではありません。聖書の中には数多くの警告が記されています。そして、それはすべて神があなたを愛しているがゆえなのです。
人間の特性についての警告
箴言26:23-27:4
今、あなたが蒔いているものは、やがてあなたが刈り取るようになるという原則は、ほとんど変わることがありません。箴言のこの箇所での多くの教えは次の節に要約することができます。「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(36:27)」言い換えれば、あなたがまくものをあなたは刈り取るということです。
作者は悪意に対して警告しています。「悪意は逆発。意地悪はブーメラン[どちらも自分に帰ってくる](27,MSG訳)」私たちが誰か人を傷付けたいという思いを隠そうとしてみても、やがてそれはあらわになります。そして私たちは結果を刈り取るのです。
次に、彼は「偽りの舌」に対して警告します(28)。人のことについて真実だけを話すように気をつけましょう。自分の敵対する人について大げさな話をしたくなるのは誘惑です。しかし、作者は警告します。「偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。(28)」
彼は続けて傲慢について警告します(27:1)。明日、それがどうなるかわからないのに、自分が達成したことを誇らないようにしましょう。誰かがあなたのことをほめてくれることを受け取ることは問題ありませんが、それを自分の口から発するべきではありません(2)。
それで、彼は人を非難することに対して警告します。「石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い。(3)」
最後に、この箇所で、彼は嫉妬について警告します。シェークスピアは「見る物すべてを食べつくしてしまう」と嫉妬を揶揄して「緑の目の怪物」と表現しました。嫉妬は怒りや憤怒よりも力強く危険な力をもっています(4)。「私たちは怒りによって萎れてしまい、激怒によって身動きが取れなくなる。しかし誰が嫉妬によって生き残ることができるでしょうか?(4,MSG訳)」
祈り:主よ。私の心を守って下さい。私の罪を、私に罪を犯した者を私が許すように、赦して下さい。試みに遭わせず悪より救い出してください。
未熟さについての警告
ヘブル5:11-6:12
神があなたに願っておられることは、あなたが健全に、強く、霊的な成熟したイエスに従う者として「キリストにあって成長することです(11,MSG訳)」
熟練には聴く態度が求められます。ここでクリスチャンは「聴く耳を持たないという悪い習慣を取り除ける(11,MSG訳)」ことが呼びかけられています。神は続けて私たちに語っておられます(マタイ4:4)。神があなたに語りかけられる時、第一には聖書を通して語りかける時、神に聴こうとする習慣を常に持つように開発しましょう。
ヘブル人への手紙の作者は、読者に対して「霊的な未成熟」に対して警告します。彼らは「教師になっていなければ(5:12)」なりませんでした。これは特殊な技能集団のことを意味してはいません。信仰にあって指導を受けた人なら誰でも他者に教えることを期待されています(1ペテロ3:15)。あなたの信仰の成長をスタートさせるための一つの最善の方法は、他の誰かにそれを手渡していくことです。これが、私たちがしばしばアルファでイエスに出会った人を次回のコースで助け手としてお迎えする理由です。
彼は彼らにミルクから固い食物に移って欲しいのです。教えることはクリスチャンの成熟の一部です。彼はキリストについての初歩の教え、すなわち、悔い改め、信仰、バプテスマ、按手、復活、さばきから移っていくように励まします(ヘブル6:1-2)。
これは作者が基本と考えていたものがなんであるかという印象的なリストであり、教会の中で教える私たちすべての人々へのチャレンジです。私たちはこれらの事柄においてすべての人々を訓練し、彼らを「固い食べ物(5:14)」へと移していくことを実に確かにする必要があります。あなたは、たとえば、礼拝、教会での交わり、聖書研究、聖書通読、信仰の良書を読んだり、良い教えを聞いたりすることなどで自分自身を養わなければなりません。
彼は言います。「しかし、堅い食物はおとなの物であって、常に使うことによって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(14)」言い換えれば、熟練は実践を通してもたらされます。神の言葉を私たちの生活に適用することです。ジョン・ウィンバーが「お肉は通りで売っている」とよく言ったように、熟練はただ頭の知識についてではありません。あなたは自分の信仰を生きることについて学びます。あなたは「通りで」洞察することを学ばなければなりません。そして「お肉」を受け取ることができるようになるのです。
彼はですから、彼らが自分の信仰を捨てることや放棄することの危険について警告しています(6:4-8)。これはとても難しい箇所です。最初にそれを見ると、クリスチャンは転落してしまうことができるということと、悔い改めが不可能である人々のグループがあるということの両方を示唆しているようです。新約聖書の残りの部分が明らかにそんなことはないと、この二つの事柄について言っています(特にローマ5-8章参照)。
彼の中心的な目的は忍耐することを励ますことです。これらの警告の厳しさは(ヘブル6:4-8)これがどれほど重要であるかを明らかにしています。しかしながら、信仰から脱落することについての指摘は発展しません。なぜなら、彼は彼らがそんなことをしないと確信しているからです。「私はあなたがたにそんなことが起こるとは全然思っていないのです。友よ。(9,MSG訳)」
彼はそれで、彼らが自分たちの人生において見せることのできる実について祝っています。彼らの親切な行動はすでに神によって認められており、あたかも彼らは主ご自身のためになし終えたかのようです(10)
。神は彼らに報いてくださるのです。
彼らのスタートは良かったのです。そして今、彼らの終わりが良くなるように、彼は励ましているのです。「最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。(11)」
一般的に、この世界では、物事を始めることの方が、終えることより容易です。最初の熱心さがすり減る時、最後までやりきるには勤勉と忍耐と勇気が要求されうのです。成功、実りの豊かさ、報いは「信仰に委ねて、コースに踏みとどまり、約束されたすべてを手に入れた(12,MSG訳)」者にもたらされるのです。
祈り:主よ。霊的な成熟において成長させてください。信仰と忍耐を通して約束されたものを手に入れた人々に見習うことができますように(12)。
さばきについての警告
エゼキエル4:1-6:14
最初から、民に警告を与えることは決して簡単な仕事ではないことは明らかです!この箇所には神がご自身の民に警告したときに、彼らにどのようなことが起こるかについてのすべてが描かれています。さらには、言えスラエルに起こったことは、「回りの諸国の民(5:15)」への警告でもあるということです。
エゼキエルは視覚教材的な実際の行動をとるように求められました。それによって罪の深刻さと、もし民が悔い改めなかったときに、差し迫ったさばきの警告を見せるためでした。
エゼキエルは常軌を逸したことを表さなければなりませんでした。総日数430日(4:5-6)にわたって、寝そべっていなければならないという少しおかしな、しかし、とても視覚教材としては強力なことをしたのです。(それは多分、人々が聞くことよりも見ることの方がよりよく覚えるという実例です。)神の民が「回りの諸国の民の定めさえ行わなかった(5:7)」ので、裁きがもたらされたのです。
神は空虚な脅しをしたのではありません。「わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではない(6:10)」神の警告はいつも愛の行動です。神はすべての民が悔い改め、「真の知識に至る(1テモテ2:4)」ことを願っておられます。
今日、私たちは否定的に人に対して厳しく響くことを心配して、危険に向かっている人々に強く、効果的に警告しないことによって、私たちが愛さない存在になってしまう危険性があります。
神の裁きが起ころうとしていることを警句するこれらの視覚的なデモンストレーションをエゼキエルが実行したのは、彼の神への愛であり、そして神の民への愛が原因です。エゼキエルは民の「咎を負う」と告げました(エゼキエル4:4-6)。この視覚教材はまた、何がこれから起ころうとしているかのしるしでもありました。エゼキエルがただ予表として示すことしかできなかったことをイエスは実現されました。イエスはあなたの罪を十字架で担われたのです(Ⅰペテロ2:24)。イエスは神の裁きをその身に負いました。そしてあなたや私がキリストにあるそれらの素晴らしい祝福の約束のすべてを受け取ることができるようにしてくださったのです。
私たちへの警告はいまだに現実的で深刻ですが、イエスの生と死と復活がすべてのことを変えました。実に、これらの警告は救いを現実的にし、そして多くの祝福がキリストにあってさらに驚くべきことに可能としたのです。福音は大いなるニュースなのです。
祈り:主よ。敏感さと忠実さをもってイエスの良き知らせをいかに私がコミュニケートするかという知恵を与えて下さい。私に神のすべての助言を宣言する勇気を与えてください。アーメン。
H.K
References
Will Pavia, ‘Warning: department of labelling may contain nuts’, Times Online, January 6, 2006.
William Shakespeare, Othello, Act III, scene iii