Tokyo Chapel

2018年8月5日

第217日

神はあなたに力を与える

私は度々電話の応対に追われました。かけてくるのはほとんどが教会の指導者たちでした。彼らは様々な教会の背景と役割を持っていました。電話は長時間に及ぶことが常でした。彼らは皆、知りたかったのです。「あなたはどうしてそんなにも多くの人々をアルファ・コースを通して教会に引き寄せることができたのですか?」「いったいアルファって何ですか?」「それをどのように開催しているのですか?」

私はこの事態の最高の解決策は彼らを一か所に集めて同時に皆に話をすればよいのだと思いつきました。その結果、彼らは1993年5月に最初のアルファ・カンファレンスを行ったのです。驚いたことに何千人もの教会の指導者たちが共に集いました。私は、まだクリスチャンの働きにおいて「新人」であったので、自分よりもはるかに経験豊かな何千もの教会指導者のことを考えると怖気づいてしまいました。

今日の新約聖書の箇所にある、使徒パウロの言葉には、そのとき私が感じたものがどのようであったかを正確に要約しているように思えます。私はカンファレンスの冒頭で参加者にこの箇所を読みました。

「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(1コリント2:1-5)」

私は、アルファとは何なのかをこの教会指導者の群れに一度説明したら、もう誰にも説明することはなくなるだろうと考えていました。しかし、実際は、カンファレンスの終わりの頃になると、もっと多くのところでカンファレンスを開催して欲しいという招待を受けたのです。何年にもわたって、彼らは何百ものカンファレンスを開いてきました。アルファ・カンファレンスのごとに毎回ニッキーは1コリント2:1-5を読んで始めました。その都度にいつも感じることは、神経質になるということです。いつも「弱さ」「恐れ」「おののき」がありました。しかし、それが「説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れ」によるものであったことを感謝しています。そして神の力は弱さの内に完全に表されるのです(2コリント12:9)

「弱さ」「恐れ」「おののき」には良い面があります。また、悪い面もあります。今日の箇所に、私たちは、弱さ、恐れ、おののきの良い面と悪い面の両方を見ることになります。


恐れと信仰

詩篇91:1-8

「何も恐れず(5,MSG訳)」と詩篇の作者は記します。神は、悪い感覚での言葉としての「恐れ」に対する答えを与えます。彼はこう記します。「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。(5-6)」

恐れに対する答えは、主との親しい関係です。それは「いと高き方の隠れ場に住む」こと、そして「全能者の陰に宿る」ことによってです(1)。「恐れる」ことの反対は神に信頼することです。

あなたが考えることとあなたが語ることの間には強い関連があります。あなたが考えたことはあなたの言葉となって出てきます。しかしまた、あなたの言葉があなたの考えに影響を与えます。あなたが神に向かって語る言葉が、あなたの考えに変化を及ぼします。詩篇の作者は神が良いお方であることを大声で話すように告げています。「こんな風に言ってごらんなさい。『神よ。あなたは私の避難所。私はあなたに信頼する。そして私は安全だ!』と。」(2,MSG訳)

神はあなたを「隠された罠から救出し、命を脅かす危険から防護される。神の大きく伸ばされた御腕があなたを守る。御腕のもとで、すべての虐げは払いのけられ、あなたは完全な安全を得る。(3-4,MSG訳)」

恐れはあなたの現在の喜びを破壊します。神はイエスを死からよみがえらされました。そうされたので、神はあなたを死の怖れとそれに伴っていた怖れすべてから解放してくださったのです(4)。あなたは将来を心配する必要はありません。あなたは恐れなく今を楽しむことができるのです。

祈り:主よ。私があなたの隠れ場に身を避けることが出来ますことを、そしてあなたの御翼の陰に憩うことが出来ますことを感謝します。私は今日あなたに申し上げます。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神(2)」私はあなたを信頼します。


弱さの中にある力

1コリント1:18-2:5

「私は死ぬことに怯えていました。(2:3,MSG訳)」と使徒パウロは記しています。パウロは神が彼を召してくださった務めに全く相応しくないと感じていました。「しかし、メッセージがやってきたのです。神の霊と神の力がそうさせたのです。(4,MSG訳)」

道徳的な弱さや臆病であることは美徳とは言えません。しかしながら、私たちはこの箇所を見るとき、弱さ、恐れ、おののきの良い面があるのを見ます。

神は物事を見事にひっくり返すのです。十字架はどんでん返しです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1:18)」

イエスは犯罪者として死にました。イエスはローマの処刑道具で死んだのです。そこで死ぬことはローマ社会では最もみじめで軽蔑されることでした。十字架は何百年もの間キリスト教のシンボルにはならなかったのです。十字架につけられることは弱いことであり、屈辱であり、敗北であったのです。

この当時、コリントは世界の知的な中心都市でした。そこには議論家、遊学教師、講師、哲学者たちが集まりました。思考と知性は非常に高い評価を受けました。

私たちが告白する福音のメッセージは知的に高い人々の多くにとっては全くばかげたことのように思えます。二千年前のイエスの十字架の死が、あなたの人生を完全に変えることが出来るということは、知識階級にとって全く「ばかばかしい」ことであり、それは「つまずきの石(23,NIV訳)」であり、宗教的な人々にとってさえも同じだったのです。

たとえそうであっても、この単純なメッセージが信じる者を救うのです。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。…なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(21,25)」

私たちがぐるっと見回してみて、教会の中で現代も真理として残っているものの多くは、「キラキラした最高のもの」ではありません。その多くは「流行っているもの」でもありません。その多くは「上流社会から」のものでもありません。しかし、神が「知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた(27)」という真理は現代でも真理です。

多くの人々の目に愚かに映るとても単純なメッセージだからといって恥じることはありません。「すぐれたことば、すぐれた知恵(2:1)」でドレスアップしようとする必要などないのです。「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方(2)」にメッセージの焦点を合わせればよいのです。ユージン・ピーターソンの訳のとおりです。「私は、平易でシンプルであるように分かち合うことを心がけてきた。まず、イエスとそのお方が誰なのかということ、次にイエスとそのお方が何をしたのかということ…つまり、イエスは十字架にかかったということ。(2,MSG訳)」

「弱く、恐れおののく(3)」というのは普通の経験です。「説得力のある知恵のことば」が大切なのではありません。「御霊と御力の現れ」こそが重要です(4)。そして神の力が私たちの弱さのうちに完全に働くのです。私たちは弱さを感じるときにこそしばしば、神に完全に依り頼むことを意思するのです。パウロは完全に聖霊が彼を通して語ることに依り頼みました。あなたが不適切だと感じたとしても、あなたが聖霊に自分を通して語ってくださるように願うなら、主はそうされるのです。

祈り:主よ。イエスと十字架のメッセージのゆえに感謝します。それこそ神の力です。私たちがすぐれたことば、すぐれた知恵を必要とせず、たとえ、弱く、恐れおののいていても、御霊と御力の現れによってメッセージを宣べ伝えることができますことを感謝します。


恐れとおののき

1歴代19:1-22:1

神の御前に「恐れおののく」ことは必ずしも間違ってはいません。実に、時にはそれが相応しいことがあります。

初期のサムエル記や列王記には説明のなかったことですが、歴代誌の作者は、ダビデが「イスラエルの人口を数えさせた(21:1)」ことが「サタン」の仕業であったことを明らかにしています。ヨアブはダビデのこれをしないように促そうとしました(3)。しかし、ダビデはそれを却下し聞き入れませんでした。「そして神はこれ(人間的な資源に頼ること)を喜ばなかった。(7,AMP訳)」

なぜ、これがそれほどに大きな罪であるのかは全く明らかではありません。ただ、ダビデが明らかに「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。(8)」と神に応答したことは確かなことです。

「それは私には非常につらいことです。私を主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。(13)」というダビデの言葉に、彼がどれほど恐れおののいていたのかが見て取れます。

ダビデが神に犠牲をささげるために来た時に、こう言いました。「私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。(24)」ダビデは主に呼ばわり、主はダビデに応えられました。「主は全焼のいけにえの祭壇の上に天から火を下された(26)」のです。

祈り:主よ。今日、私はあなたのもとに弱いまま、恐れおののいて参ります。どうか私の弱さのうちに完全に働く力にお答えくださいますように。アーメン。

H.K